「あなた達の生きる未来を、私達が諦めるわけにはいかない。」
『ONEPIECE』ニコ・オルビアの言葉です。
徳川家康が、大御所として過ごしてきた事で知られる駿府城。
発掘調査の結果、その天守台は日本一大きいものであった事が、立証されました。
天守台とは、天守を築く土台として、周囲よりも高く作った所を指します。
駿府城は、三重の堀を持つ輪郭式の城で、現在は本丸と二の丸の城跡が「駿府城公園」として整備されています。
2016年から行われている駿府城天守台発掘調査の報告によれば、駿府城の天守台の大きさは、南北68m・東西61mでした。
江戸城の天守台が、南北45m・東西41mの為、駿府城は江戸城を大きく上回る大きさだったのです。
家康は、何故居城に駿府城を選んだのでしょうか?
家康に所縁のある和尚によると、家康自身が下記の理由を挙げていたそうです。
①幼少期を過ごした心の故郷であった事
②富士山の眺望・温暖な気候・米が天下一品である事
勿論、個人的な理由だけではなく、家康は当時の政治状況も踏まえていました。
駿府城の西には安倍川・大井川等の河川があり、東には箱根山と富士山の難所があります。
その立地は、戦略的観点からも優位であった事を伺い知る事が出来ます。
駿府城改修の2年前である1605年、家康が息子・秀忠に将軍職を譲った時、大阪ではいまだに豊臣家が隠然たる実力と影響力を持っていました。
その影響力を考慮し、関東防衛の拠点として、家康は駿府の地に巨大城郭を築いたのです。
また、参勤交代で東海道を利用する諸大名が家康に謁見する時、彼らは巨大な駿府城を見る事で脅威を感じ、同時に、家康と江戸幕府に対する畏怖の念を覚えたはずです。
世界でも例を見ない260年の平和に、駿府城が一役買っていたのです。