「確かに日向翔陽は、高校では活躍した選手ですが、高校卒業後は単身ブラジルへ乗り込んでビーチバレーを2年経験し、帰国してインドアに復帰という異例の経歴(キャリア)です。」
「高校時代は、大会出場スパイカー中、最低身長ながらMBをやっていた事もあるんですよねえ。あの影山飛雄と共に、驚きと畏怖を込めて、変人コンビと呼ばれていました。」
『ハイキュー』実況者の言葉です。
明治維新後、ある男が内務省に到着すると、内務省内は静まり返ったと言います。
その男こそ、大久保利通です。
戦国時代に関しては、初めは信長や秀吉に憧れ、次に黒田官兵衛や石田三成等を好むようになります。
しかし、20年程歴史好きを続けていると、家康に畏怖を込めざるを得なくなります。
同様に、幕末に関しても、初めは龍馬や土方に憧れ、次に松陰先生や大村等を好むようになります。
しかし、20年程歴史好きを続けていると、大久保に畏怖を込めざるを得なくなります。
武芸の達人でもない大久保が、何故それ程、周囲を畏怖させる雰囲気を持っていたのでしょうか?
大久保は、薩摩藩の下級武士の子として生まれ、3歳年下の西郷とともに、少年時代を過ごします。
胃弱だった大久保は、武芸よりも、学問を好みました。
学問の成果が実を結び、17歳の時、公文書作成を補佐する役人となります。
しかし、その後、大久保の運命が大きく変わる出来事が起こります。
1849年、薩摩藩でお家騒動が勃発したのです。
10代藩主の島津斉興が長男の斉彬ではなく、側室のお由羅との間に生まれた久光を後継者にしようと画策します。
反対勢力に対し、切腹や島流し、謹慎等を命じます。
この「お由羅騒動」により、大久保の父も、島流しになってしまいます。
大久保は、父が帰ってこられるかわからず、母も病気がちな上、妹が3人いるという状況の中、一家を支えなければならない状況に立たされてしまいます。
大久保を待っていたのは、想像をはるかに超える困窮でした。
役所の仕事も失い、大久保は今日食べる事もままならない状況へと追い込まれます。
この時、大久保は、父の知人宛てに「お恥ずかしい次第ですが、返済の支払いを伸ばして貰えないでしょうか?」という手紙を出しています。
刀を担保にして借入れをしてもまだ足りず、家財まで切り売りする程に困窮していました。
3年の月日が経ち、父は島から帰る事が許されます。
困窮を何とか凌いだ大久保が目にしたのは、髪は真っ白となり、痩せ衰えた父の姿でした。
大久保が、なりふり構わず出世の道を追求するようになるのは、それからしばらくしてからの事です。
西郷と比較し、大久保は冷徹で権力に愛されたというイメージが強いです。
しかし、大久保は青年期に地獄を経験していました。
だからこそ、二度と同じような目に遭わないように、大久保はいつも権力の中心にい続けるべく努力を続けたのかもしれません。
いつでも、コンプレックスが、成功の原動力になります。