あの男は成功した。三成ほどの寵臣までが家康のもとに走って媚を売ったとなれば、世の姿はくずれ、人はけじめを失う

 

 …同じ行動でも、理解の度合いが変われば、見え方は変わる。江戸っ子らしい勝気さと、その奥にあるあたたかな情。一人の人物を多面的に描くことで、登場人物への解像度は上がる…

 『あかね噺』学問の脳内言葉です。

 

 

 いつだったか、現群馬県知事である山本一太氏を『朝まで生テレビ』にて、田原さんが「この人は安部派。どんな時でも、安部さんの側にずっといた。」等と評していました。

 石田三成を評するのであれば、豊臣派でしょうか。

 

 三成率いる西軍と家康率いる東軍がぶつかった、おそらく日本史上最初で最後の天下分け目の戦、関ケ原。

 関ケ原を深く知るには、歴史の知識だけでは、事足りません。

 そこには、積極的に戦う事をしない疑心暗鬼の武将やどちらかの軍に所属をしているものの戦況次第で裏切りを決めている武将等、様々な武将の心理戦が繰り広げられていました。

 さらに、東軍の先方であった福島正紀や主力となっていた加藤清正・黒田長政等は、豊臣恩顧の武将であった事からも、戦とは心理戦である事を物語っています。

 

 

 「智弁勇だけでは、世を動かせませぬな。時には、世間がそっぽをむいてしまう。そっぽをむくだけではなく、激しく攻撃してくるかもしれぬな。真に大事をなすには、もう一徳が必要です。」

 「つまり?」

 「幼児にさえ好き慕われる、という徳でござるな。」

 「左近。わしには、無理さ。正徳の短所は、ついになおせぬものだ。短所を改めんがために大苦しむよりも、短所にあぐらをかいて長所をのばすほうが、急務だ。」

 「そのとおりです。が、私はそのようにむずかしいことを申しているのはありませぬ。せめて杖を拾ってもらったときぐらいは、笑顔をみせて存分に会釈をなされ、と申している。相手は家康なら、なおさらのことです。」

 『関ケ原』島左近と三成の会話です。

 

 

 加藤清正・福島正紀・黒田長政等、長く子どもが出来なかった秀吉夫婦に自らの子どもの様に育てられた武将達と、秀吉に才を見出され秀吉の天下統一を官僚として支えてきた三成。

 秀吉亡き後、豊臣の天下を虎視眈々と天下を狙う家康に対抗する為、彼らは結束しなければなりませんでした。

 しかし、彼らは互いに衝突し合い、その軋轢を家康により、さらに修復困難なものにされていきます。

 

 そして、彼らは気付きません。

 この物語が、家康により、描かれた徳川の天下を描く物語である事を。

 家康には、三河一向一揆・石川数正出奔等、味方が本当に味方なのかわからず、裏切られるという経験がありました。

 また、そのような揺さぶりを、秀吉に仕掛けられた経験も、ありました。

 しかし、豊臣恩顧の武将達は、あくまでも秀吉の庇護の下、戦や政治をしてきたに過ぎません。

 まるで、酸いも甘いも知る経営者と、大企業に勤める会社員の戦いであるかの程、心理戦において、西軍と東軍においては差がありました。

 

 加藤清正も福島正紀も黒田長政も石田三成も、皆、豊臣の為という思いは同じであるのに、その思いがズレていく過程は、現代の私達にも通ずる所があります。

 このズレが、開戦当初優勢であった西軍の主力、そして、三成の右腕である左近を黒田長政の隊が狙撃し重症を負わすという戦況を揺るがすものにまで至ってしまいます。

 

 歴史を見る時、歴史だけの知識では歴史を多面的に見る事は出来ません。

 歴史以外の世界観から、歴史を見る事で、歴史の解像度は上がります。

 私は、歴史を心理学と地政学から見ています。

 

 歴史を歴史以外の世界観から見ていく。

 そうする事で、歴史の解像度が上がる事を、約束します。