しゃ楽師匠は、廓噺を語る上で話術の重要性を説いていた。そんなしゃ楽師匠が聞き入る程の話し手は、美しい女性だった

 

 「女性に落語は出来ないと豪語していた落語家がいた。その一人が昭和を代表する名人、蘭彩歌しゃ楽。そんなしゃ楽師匠から声をかけられて落語家になったのが、うらら師匠だ。よくその目に焼きつけなさい。ここからが大看板蘭彩歌うらら、その本領。」

 

 …昭和を代表する落語家、蘭彩歌しゃ楽。女性描写に定評があり、中でも遊郭を舞台にした廓話を演じさせれば天下一品。天朱郭と呼ばれた廓の名手は、もう一つの異名があった。師資不承のしゃ楽。自らの芸を他者に教えることを拒み、誰一人として弟子入りを認めなかった。それは何故か、他者が自らの芸を継承出来るとは思えなかったからだ…

 …女は論外。若造では芸の神髄を理解出来ず。熟練の落語家は自分の色を勝手に足し鍛え上げた作品を汚す。自身の芸は、一代限り。しゃ楽は、そう心に決めていた。彼女に出会うまでは。程なくして、彼女はしゃ楽に見出され、落語家へと転身する。生涯唯一の弟子について、しゃ楽は語る。彼女に自らの芸の真価を見た…

 『あかね噺』八正の言葉とうららの回想です。

 

 

 『ファーブル昆虫記』を記したファーブルは、ある夜、驚きの出来事に遭遇しました。

 朝に羽化したばかりの1匹の蛾の雌をカゴに置いておいた所、どこからともなく20匹もの蛾の雄がやってきたのです。

 この夜から、ファーブルは7年もの年月を費やして、研究を行いました。

 

 ファーブルの住んでいた家は、様々な樹木に囲まれていました。

 夜になれば、あたり一面は闇に包まれます。

 そのような環境の中で、決まって夜の8時~20時になると、雄の蛾が雌の元に集まってくるのです。

 

 暗闇の中をやってくるわけですから、雄が雌を見つける方法は、視覚ではなさそうです。

 一方、雌の身体に耳を澄ませても人の耳に聞こえるような音は出ていませんし、臭いもしませんでした。

 では、雄は何を頼りに雌の元まで、辿り着いているのでしょうか?

 

 ファーブルの観察によれば、雄の蛾は真っすぐ雌に向かってくるわけではなく、ゆっくりヒラヒラと飛んで、迷いながら雌に辿り着いていました。

 そこでファーブルは、臭いのような「知らせの発散物」が雄を引き寄せると仮説を立てて、実験を重ねていきました。

 ファーブルは、研究を進める中で、仮説と検証を繰り返し、その仮説を「適齢期の雌は、我々人間の嗅覚では感じる事の出来ない極めて微妙な臭いを発散させている」と確信に変えていきます。

 

 この微妙な臭いこそが、現在「フェロモン」と呼ばれているものです。

 その実態が判明するのは、ファーブルの発見の60年後でした。

 異性を引き付けるフェロモン。私は、一目惚れの要素の1つは、フェロモンであるという仮説を立てています。勿論、一目惚れは、恋だけではなく、異性や人だけが対象ではありません。

 

 

 「下手の廓は、聞くに耐えない。聞き手に当時の風俗を理解させてこそ、廓のおもしろさは華開く。しゃ楽師匠は、廓噺を語る上で話術の重要性を説いていた。そんなしゃ楽師匠が聞き入る程の話し手は、美しい女性だった。」

 「女に落語は出来ない。自らの道理を曲げてでも、彼女が語る自分の芸を見たいと思った。その自己矛盾の結果が、ご覧の通りだよ。」

 

 「話術はモチロンですけど、私が驚いたのは、あの妖艶さ。女性が艶っぽく演じると、聞き手の気を散らす要因になりかねない。そう師匠から教わったのに。」

 「確かに女性の艶は、噺の枷に成り得る。だが師匠は、抑えるどころか、聞く者をより深い廓の世界に沈める。武器として芸に昇華している。見る者を虜にする妖艶さと、昭和の名人をも唸らせる程の話術を用い、廓噺で狂わせる。それが廓噺の名人、地獄太夫・蘭彩歌うらら。」

 『あかね噺』八正とあかねの会話です。