「あれ、そんで西谷は、今何してるって?」
「あ、そうそう。西谷は、今イタリアでカジキ獲ってるって。」
「‥‥なに???」
「イタリアで、カジキをとってる。」
「いや、聞こえてなくて、聞き返したワケじゃねえよ。」
『ハイキュー』菅原・東峰・澤村の会話です。
♦才能は開花させるもの、センスは磨くもの
私は、研修と会議が、大嫌いです。
研修と会議をする時間があるのなら、勉強をしたり、本を読んだりする方が、100倍知識を身に付ける事が出来ます。
私からすると、普段勉強や読書をしない人が、勉強している感や仕事している感を出す為に、存在するのが、研修や会議であると感じてしまいます。
年配の講師が延々と資料を読み続ける事を聞き続けるだけの研修や、裁量権がなくその場で何も決まらない会議に出席する事は、私にとっては、拷問です。
さらに、研修や会議の感想において「○○をやってみたいと思います。」という事を挙げる人が、多いです。
これも、私が、研修や会議に参加する事が、拷問である事の理由の1つです。
私は「〇〇をやってみたいと思います。」という人に対して「で、あなたは今、何をやっているの?」と考えます。
★「やってみたい」
☆「やってみた」
「やってみたい」と「やってみた」の間には、とても大きな壁があります。
「今日皆に会うって言ったら、さっきコレが届いた。」
「‥‥‥。」
「俺達は、ちっぽけな存在だし、世界は広い。」「全くです。」
「東京出るか迷ってるときに、西谷と話しててさ。西谷は将来どうすんのか聞いたんだよね。漠然とバレーやるんだろうって思ってたんだけど。」
…「そうっすね。俺は、少しだけ金貯めて、その金で、日本でも世界でも、行けるとこまで行ってみます!で、見たことも聞いたこともない事、いっぱいやってみたいです!」…
…「そっか。俺はさ、東京の学校に行こうかなって。服関係の。」…
…「東京も、新幹線でビュン!ですもんね!」…
…「‥うん。ビュン!だねえ。」…
『ハイキュー』東峰・菅原・澤村の会話と、西谷と東峰の回想です。
♦「やってみたい」は迷信「やってみた」は科学
「やってみたい」と「やってみた」は、次元の異なる話です。
これは、情熱や本気度・やる気等のような抽象的な差ではありません。
★「やってみたい」は迷信
☆「やってみた」は科学
やってみれば、データを取る事が出来ます。
そのデータを基に、次のもっと上手いやり方を考える事が出来ます。
仮説を立て・実験をし・検証する事が出来れば、それは科学です。
やってみたいばかり言い、やった事のない人は、思い込みや推測・周りの空気等でしか動く事が出来ません。
たとえば、独立をしたいのなら、実際にお客さんになりそうな人を訪ねて回り、自分の出来る事をプレゼンしないと、データを取る事が出来ません。
これは、仕事に限らず、勉強にも当てはまります。
★インプットが先の勉強法:まず、教科書を理解しようと勉強し、その後に問題集を解く
☆アウトプットが先の勉強法:まず、問題集を解く。解けなくても、やってみる。その後でわからない所のみ教科書を見る
日本人の多くが「インプット」を先にする仕事や勉強方法を選択し、そこに疑問すら抱かないのは、教育の罪が大きいでしょう。
学校の勉強は「インプット」を先にする事が、殆どです。
「問題集をやらせて、わからない所だけ教科書」というスタイルではなく「教科書をしっかりやって、その後に問題集をやる」というスタイルです。
しかも、その教科書は、特に優秀でもない教員が、そのまま読むという、非常につまらないものです。
☆習っていないので、出来ないという言い訳が成立する
★習っていない事はやるな等、謎の制約が生まれる
しかし、私達が生きていく社会は「きちんと習える事」等殆どなく、予習が出来ない事の方が、遥かに多いです。
ガリレオ・ガリレイが、落下の実験をするまでは、重い物が軽い物よりも、早く落ちると、皆、信じていました。
仮説を立て・実験をし・検証するまでは、実際に何が起きているのかを、理解する事は出来ません。
仮説を立て・実験をし・検証するまでに必要なのは「アウトプット」です。
「アウトプット」が出来ない研修や会議等にせっせと参加等せず、その時間をデータを集める時間にしていきましょう。
「やると決めたら、何だってビュン!になるのである。」
「ビュン!と捉えるかどうかは、自分次第。」
「ウチの小さい後輩は、ビュン!が過ぎる。」
…「これからも、何だってできる!!!」…
「あの子、何でもできるのね~。」
「何を、どれだけできようとも、俺たちに十分は無えんだ。」
『ハイキュー』菅原・東峰・澤村の会話、高校最後の試合の回想、鷲匠夫婦の会話です。