その精神が充血すればするほど、喜劇的になり、同時に思い入れの多い悲劇を演じてしまっている

 

 新選組の物語の後半、新選組は落ち目の三度笠となります。

 鳥羽伏見の戦いでは、日野にいた時からのメンバーである井上源三郎ら多くの隊士が戦死します。

 江戸に戻る船上では、重症だった監察方・山崎丞が亡くなります。

 

 山崎の葬儀は、海軍の慣習による水葬となりました。

 船上には、右肩を狙撃された近藤勇・結核が重くなってきた沖田総司、そして、土方歳三がいました。

 生き残りの隊士40人は、ほとんどが負傷している中、1人無傷の男がいます。

 

 「土方さんくらいのものだなあ、無傷に突っ立っているのは。」

 沖田は、土方をからかいます。

 土方は、不機嫌そうに静かにしろと言います。

 「感心しているんです。見渡してみると、どうみても土方さんだけが鬼のように達者だ。」

 

 

 やがて、近藤が刑死し、沖田は病死します。

 隊士の多くは戦死、若しくは離脱していきます。

 その後も、土方は、宇都宮で負傷した程度で、進んで死地に入るにも関わらず、最後まで不死身でした。

 或いは、死ねない男であったのかもしれません。

 

 

 …彼はいったい、歴史のなかで、どういう位置を占めるために生まれてきたのか、わからない。歳三自身にも、わかるまい。ただ懸命に精神を昂揚させ、夢中で生きた。そのおかしさが、この種の男のもつ宿命的なものだろう。その精神が充血すればするほど、喜劇的になり、同時に思い入れの多い悲劇を演じてしまっている…

 『燃えよ剣』司馬遼太郎の後書きです。

 

 

 徳川家康は、戦の中でも、その戦での自分の振る舞いが、後の世にどのような薬となって働くかを考えていたように思われます。

 坂本龍馬は、明治維新が成った後の、日本の形を思い描いていました。

 

 土方は、このどちらも持ち合わせていませんでした。

 ただ、目の前の正義を貫き通していたら、いつの間にか、自分や新選組が逆賊となっていました。

 

 悲劇は突き抜けると、喜劇となります。

 その逆も、然りです。

 

 

 誰もが、生きていく上で、喜劇的であり、悲劇的でもあります。

 これは人の宿命であり、抗う事等出来ません。

 私達が、土方歳三を愛するのは、その愛すべき典型であるからかもしれません。