「歴史は、人の財産。あなた達が生きる未来をきっと照らしてくれる。だけど、過去から受け取った歴史は、次の時代へ引き渡さなくちゃ消えていくの。」
「私達の研究は、ここで終わりになるけど、たとえオハラが滅びても、あなた達の生きる未来を、私達が諦めるわけにはいかない。」
『ONEPIECE』ニコ・オルビアの言葉です。
『花咲かじいさん』の話は、誰もが知る所でしょう。
江戸時代初期に成立したと言われるこの話は、心優しいおじいさんと、欲張りおじいさんが、対比的に描かれており、実にわかりやすい寓話になっています。
最後の場面ー心優しいおじいさんが灰を撒くと、枯れ木に花が咲くーという所が「死と再生」をイメージさせる点で、私には心に残っています。
この話には、複数の類話が存在しますが、最後の場面は、どの話も同じです。
花の種類は特定されていない為、梅や桃でも良いのかもしれませんが「死と再生」をイメージさせるには、やはり桜が適任でしょう。
桜は、不思議な花です。
私達は、満開の桜が放つ美しさを讃える一方で、散りゆく桜にも別の種類の美しさを感じています。
私達の儚い生と桜が散る事が、重ねられているのです。つまり、桜の美しさには、今この場での視覚的な美しさに加えて、散りゆく様を想像した時に連想される儚さも含まれています。
老いても、人は生きています。
しかし、人としての頭脳は、それ程には働かなくなる人が多いものです。
端的に表現をすれば、老いが進み、頭脳が働かなくなると、動物のようになっていきます。
動物の様に、ただ食べたり、ただ寝ているだけと表現する事も出来るかもしれません。
老人は、次に植物人間になったり、植物みたいになっていきます。
ただ生きているだけで、言葉を発する事も動く事も少なくなり、表す感情といえば怒りのみで、そこに人としてのコミュニケーションは存在しなくなっていきます。
植物状態の次に、人は灰にされます。
命あるものは灰となり、ここで完全な終わりを迎えます。
しかし、この灰が、枯れて死んだと思われていた木に新しい命を吹き込む事もあります。
つまり、命あるのもは、変容を繰り返していくのです。
その姿や形が変わっていくにせよ、それが消えていくわけではないのです。
自然科学的な「生命」とは「閉じられて限定される命」を意味します。
この考え方は、私達の命は固体内に閉じ込められており、唯一無二で代替が利かない存在という認識です。
人文科学的な「いのち」とは「開かれて連続する命」を意味します。
この考え方は、私達の命は私という個体の中に閉じ込められているわけではなく、私という個体の枠を超えて、他の個体と無限に連関している存在という認識です。
私達の命は、他の命と連続しており、多種多様な命の繋がりの中に位置しています。
自分の小さな命は、自分を超えた大きな命(自然や人類等)の一部であるとも言えますし、自分の小さな命の中には、自分を超えた大きな命が存在しているとも言えます。
死んだとしても、何らかの形で命は続いていくという死生観の方が救われると感じるのは、私だけでしょうか?