「弱い奴等に、気を遣うのは疲れるよホント。」
「弱者生存。それがあるべき社会の姿さ。弱きを助け、強きを挫く。いいかい悟、呪術は非術師を守るためにある。」
「それ正論?俺、正論嫌いなんだよね。」
「‥何?」
「呪術(ちから)に理由とか責任を乗っけんのさ、それこそ弱者がやることだろ。ポジショントークで、気持ち良くなってんじゃねーよ。」
『呪術廻戦』五条と夏油の会話です。
私は、多数決で一般的に善と洗脳されている嘘や建前ではなく、一流の人が教えてくれる「でも、本当はこうだよ。」という知恵が大好きです。
たとえば「死ぬ気で頑張ります。」等と言う人は、いまだに一定数存在しますが、このように言う人程、言葉と行動が伴わないと相場は決まっています。
あえてそのような表現を使うのであれば「死ぬ気でやる」よりも「殺す気でやる」方が、真理を付いていると感じるのは、私だけでしょうか?
世の中を嘘や建前ではなく語るのであれば、多くの人のパッとしない人生を正当化する為に、善悪という道徳で、軟弱な心を守っているように私には感じてしまいます。
かつて、ニーチェは『道徳の系譜』の中で、圧倒的多数の弱者のルサンチマン(弱者の強者への嫉妬・復讐心)をくすぐる為に、道徳は悪用されたと洞察しています。
道徳論は、幼稚園児が語っても、ニートが語っても、社長が語っても、正しいのです。
誰が語っても正しいという事は、退屈という事です。
これは私の経験ですが、頭の悪い人程、自分の頭の悪さを隠蔽する手段として道徳論を語る傾向にあります。
仮にあなたがそうであれば、その魂胆はバレバレだからやめる事をお勧めしますし、そのような人とは距離を取る事をお勧めします。
道徳論を熱く語る人は、全て偽物です。
道徳論は、誰が述べても正しい為、反論の余地がありません。
つまり、その相手は道徳論を盾にして、あなたを封じ込めようとしている意地汚い偽善者なのです。
誰にでも当てはまる=専門性がない
上記を理解し、虚心坦懐に世の中を観察するとともに、あなたは、そうではない道を歩いてくれる事を、心から願います。