…点を獲ったら、褒めてくれ。獲れんかったら、罵ってくれ。「がんばったで賞」は要らん…
…賞賛か、罵声か、どっちかで、ええねん。どっちかの中に、居りたいねん…
『ハイキュー』宮侑の脳内言葉です。
人間社会の都合で、その都度でっち上げられる「善悪」ではなく「自然の摂理」に則れば、強者は美しく、弱者は美しくありません。
私は、子どもの頃から、友達と話をしていても楽しくないと感じる事が多かったです。
それは、友達同士の会話の殆どが、多数決で一般的に洗脳されている「嘘」や「建前」ばかりだったからです。
これは、大人になった現在でも変わりません。
仕事においても「嘘」や「建前」ではなく「でも、本当はこうだよ」と本物の知恵を教えてくれる人と出逢いたいと願っていますが、中々そのような人と出逢う機会がありまません。
こちらが本物の知恵を知る為、その業界の痛い部分を尽いた質問をすると、やや興奮をし「善悪」という「道徳」を振りかざしてくる人が多く、疲れてしまいます。
「道徳」とは、自分の冴えない人生を正当化する為に、軟弱な我が身を守る行為ではないかと最近感じています。
ニーチェは『道徳の系譜」の中で、圧倒的多数の弱者のルサンチマンを擽る為に「道徳」は悪用されたと洞察しています。
ルサンチマンとは、弱者の強者への嫉妬・復讐心等を言います。
社会を虚心坦懐に洞察し「嘘」や「建前」を抜きにすれば、強者は美しく、富者は善である事に気付きます。
しかし、圧倒的多数の弱者を支配する為に、強者や富者は確信犯で、弱者こそ美しく、富者は悪であると価値観を転覆させています。
あなたが強者や富者の元で産まれその状態を維持していく為にも、あなたが強者や富者の元に産まれなかったが成功をしていきたいと願うのであれば「嘘」や「建前」ではなく、誰も教えてくれない上記の現実を知った上で、行動を重ねていく必要があります。
アインシュタインさえ信じていた「宇宙は永遠に不変」という考えは、アメリカの天文学者エドウィン・ハッブルにより覆ります。
1924年ハッブルは「天の川銀河」の外にも、似たような星の大集団「銀河」が存在している事を観測しました。
さらに、ハッブルは、殆どの「銀河」が「天の川銀河」から遠ざかるように動いている様子を観測します。
しかも、遠くの「銀河」程、距離に比例して速く遠ざかっていたのです。
これは、何を意味しているのでしょうか?
「銀河」が「天の川銀河」から遠ざかっているとすると、宇宙の中心に「天の川銀河」があるかのように仮説する事が出来ます。
しかし「宇宙原理」により、宇宙に特別な場所はないと考えられている為「天の川銀河」が宇宙の中心であるとは考えられません。
では「天の川銀河」だけではなく、どの「銀河」から見ても、他の「銀河」は距離に比例した速度で遠ざかっているという仮説はどうでしょうか?
上記の仮説が成り立つ為には、宇宙の空間全体が膨張している必要があります。
たとえば、干しぶどう入りのパンが膨らむ時、どの干しぶどうから見ても、他の干しぶどうは遠ざかって見えます。
また、全体が同じ割合で膨らめば、遠くにある干しぶどう程、同じ時間では、より遠くに移動する事になります。
距離に比例した速度で、遠ざかるのです。
宇宙でも、干しぶどう入りのパンと同じ事が起きているという考えは、現在においても、通説になっています。
100年程前のこの考えは、徐々に受け入れられ、宇宙は時間が経つにつれて、徐々に大きく膨らんでいるという宇宙観が、現在においても科学者達の主流となっています。
漱石が後年の作品で多用した「自然の摂理」という言葉。
私は、この言葉が大好きで、生じた理由の原因や起こり得る未来の予測等をする時に「自然の摂理」で考えた場合、どうなるかという思考が習慣になっています。
「自然の摂理」で考えた場合、宇宙が時間とともに膨張する作用同様、強者と弱者、富者と貧者の格差は、拡がり続けます。
まずは「善悪」等の「道徳論」を語らないようにする事です。
私自身、大学時代尊敬をしていた教授と私がバイトをしていた先の上司が、同じタイミングで「自分の家族がされて嫌だと感じる事のないような仕事をしなさい。」等という言葉を投げかけられ、落胆した事を記憶しています。
当時は、落胆した理由を、上手く言語化は出来ませんでしたが、直感的に「これは、駄目だな」と感じた事だけは、記憶しています。
「道徳論」は、幼児が語っても、ニートが語っても、社長が語っても、正しいものです。
誰が語っても正しいという事は、退屈という事です。
ブラック企業に限って「道徳的」で高尚な理念を掲げています。
しかし、実態が伴っていないどころか逆になっており、社会的にもそれが露呈されているのは、承知の事実です。
「道徳論」を熱く語る人を、信用しない事です。