ねぇ噺はともだちなんだよね?弱い人は、ともだちになれないの?落語家って強くなくちゃいけないの?

 

 …僕は、僕という草は、この世の空気と陽の中に、生きてにくいんです。生きていくのに、どこか一つ欠けてるんです。足りないんです。いままで、生きてきたのも、これでも、精一杯だったのです…

 太宰治著『斜陽』の一説です。

 

 あなたは、太宰治が好きですか?

 私は、好きです。

 高校生の頃、クラスの本棚にあった『人間失格』を読んだ時に、救われたような気持ちになった事を記憶しています。

 

 心理学者のエリクソンは、思春期の発達課題を「自我同一性VS同一性拡散」と定義しています。

 これは、思春期は自分は何者なのか・自分の信念とは何なのかを獲得するという事を現しています。

 

 思春期は、誰もが、多かれ少なかれ、生きづらさを感じます。

 まだ世の中にしっかりと入り込んでいなくて、世の中に上手く入っていけるかどうか不安を感じながらも、そんな世の中に入っていく事自体への拒否感・虚無感も併せ持っています。

 そういう生きづらい時には、誰もが、自分に問題があるのではないかと考えます。

 こんな辛さを感じているのは、自分だけではないかという不安もあります。

 

 そんな時に太宰治が「辛い。辛い。」と言ってくれる事は、思春期の子ども達にとっては、大きな救いとなります。

 その為、太宰を好きな人は「気持ちをわかって貰えた」「同じ気持ちだ」という様に太宰を大好きになります。

 その一方、太宰を嫌いな人は「甘えている」「駄目な自分に酔っているだけ」という様に太宰を大嫌いになります。

 

 太宰を大嫌いな人の代表が三島由紀夫でしょう。

 …弱いライオンの方が強いライオンよりも、美しく見える等という事があるだろうか…

 確かに、ライオンは、強いライオンの方が美しいかもしれません。

 しかし、ウサギであればどうでしょうか?

 強いウサギより、弱いウサギの方が、ウサギとしては美しいのではないでしょうか?

 

 

 太宰を「甘ったれ」「駄目な自分に酔っているだけ」と何故皆が知っているのでしょうか?

 これは、太宰自身が自分の「甘ったれな自分」「駄目な自分に酔っている自分」を書いているからです。

 書いていなければ、誰も太宰が、甘ったれで駄目な自分に酔っているナルシストであると知らないわけです。

 

 太宰を批判する気持ちは理解出来ますが、そういう人物像を描いている文章は、きちんと客観的で、自分を冷静に見通しながら書いています。

 ナルシストとしてだけの文章であれば、現在まで読み継がれる日本を代表する文学に等なれるわけがありません。

 

 多くの人は、自分の甘ったれな部分・自分に酔っている部分・ナルシストな部分を、隠します。

 翻って、誰もが、甘ったれな部分・自分に酔っている部分・ナルシストな部分を、併せ持っています。

 それをそのまま書く嘘の無さに、若い頃は、心惹かれます。

 

 しかし、大人になると、今度はそんなにあからさまに書かれる事に耐えられなくなってきます。

 私自身、大学生の頃にもう1度『人間失格』を読むと、恥ずかしい気持ちになってきた記憶があります。

 大人になると隠しているものを、そんなにあからさまにしないでほしいという気持ちになるのです。

 

 たまに、太宰を読み返すと、昔の自分に出逢えるような気持ちとなり、私にとってその時間が何よりもの至福の時間です。