「わたしは、牧之原翔子です。牧之原サービスエリアの牧之原に、大空を翔ける子の翔子。少年の名前は?」
『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見る』牧之原翔子の言葉です。
私は静岡県清水市(現在の静岡市)で生まれ、静岡県相良町(現在の牧之原市)で育ちました。
日本一標高の高い富士山と、日本一深い海である駿河湾に囲まれ、その風景は私にとって当たり前のものでした。
18歳で地元を飛び出し、外から静岡県を見ると、魅力的な県である、またはその魅力を活かしきれていない県であると感じる事が多々あります。
発電の燃料やガソリン・プラスチックの原料等、私達の生活に欠かす事の出来ない石油。
石油は、ほぼ100%海外からの輸入で賄われています。
しかし、実は静岡県にも採掘出来る場所がある事を、ご存知でしょうか?
それが、牧之原市西部の相良地区にある、太平洋岸唯一の石油抗「相良油田」です。
相良油田は、1872年(明治5年)2月「油くさい水が出る」と聞いた元徳川藩士・村上正局により、発見されました。
同年3月には、静岡学問所の外国人教師であるエドワード・ウォーレン・クラークにより、その液体が石油である事が判明されました。
翌年5月には、手堀りによる採油が始まります。
1874年(明治7年)には、日本石油(現在のENEOS)の前身である長野石炭油会社による日本で最初の機会堀りがスタートします。
最盛期の1884年(明治17年)には、従業員600人、年間で721キロリットルもの石油が産出されました。
相良油田の石油は、深さ310m、岩と砂岩等が交互に積み重なる第三紀中新世気の相良層という地層から採取されていました。
非常に軽質で低粘土、ウイスキーやブランデーのような透き通った琥珀色の液体で、精製せず、そのままでも自動車が動く程の高品質であったと伝えられています。
そんな相良油田も、産油量の激減や海外からの安い原油の輸入により、1955年(昭和30年)には、発掘停止となります。
その後、1980年(昭和55年)には、相良油田石油抗が静岡県指定文化財となり、現在、その跡地は油田の名残を留める「相良油田油井」「油田の里公園」として、観光と研究に残されています。
そのような影響か、牧之原市にはスズキ自動車・伊藤園・TDK等、街の規模や人口と比較し、大きな企業が複数存在しています。
その為、2015年の総務省国勢調査において、静岡県の中での所得ランキングで、全45市町村の中で牧之原市は406万円で、3位となっています。
これは、静岡市や浜松市よりも、高い結果です。
しかし、2022年には平均所得が288万円に下がり、26位にまで転落しています。
たまたま、地政学に恵まれた場所に生まれ、生涯その場所を出る事なく、高校卒業後、大企業の工場に就職をし、言われた仕事を黙々とこなし、組織に逆らう事なく会社に所属し続ければ給料も職位も勝手に上がっていくという、相良版人生のロールモデルが崩壊しつつある事が、上記の数字から伺い知る事が出来ます。
私は、故郷に貢献したいという気持ちはまだありませんが、それでも牧之原を始めとした静岡県には、魅力がたくさんあり、その魅力を活かしきれていないという思いがあります。
現在、日本が世界に代表するものは、車とアニメです。
奇しくも、この両方が牧之原市にはあります。
相良油田と『青ブタ』とのコラボがあれば、全国から青ブタファンが訪れると思います。