秀吉が江戸に所領を移させた家康を監視する為、松本城を任せたのが石川数正でした。
数正は、家康が今川の人質となっていた幼き頃より、家康の家臣として家康の成長を支えてきました。
桶狭間も、三方ヶ原も、小牧長久手も、家康の隣には、いつも数正がいました。
数正は、主に徳川の外交を担当していました。
信長亡き後、天下は瞬く間に秀吉のものとなっていきます。
秀吉からすると、家康は脅威でした。勿論、家康からしても、信長に仕えてきた時から知る秀吉が天下を獲る事は、止めたいものでした。
小牧長久手の戦いでは、家康は戦では秀吉に勝利したものの、外交で秀吉が信長の子・信雄を調略した為、信雄を総大将とし織田家の為に戦をしていた家康は大義名分を失い、戦は終了を迎えます。
ここから秀吉は、電光石火の如く、小牧長久手の戦いにおいて、家康側についた西国の大名達を次々と秀吉の配下に従えさせます。
そのような状況の中、秀吉との外交を担ったのが、数正でした。
秀吉の怖い所は、硬軟織り交ぜながら、相手を追い詰める事にあります。
信長のように、わかりやすい恐怖で追い詰めるのではなく、相手を認め、相手を褒めながらも、時間を掛け、自らの利益の為に相手を動かします。
わざと自分を下手にみせる芸も、農民出身から信長に好かれる事だけを考え数十年を生きてきた秀吉にとっては容易い事でした。
その秀吉の背景には、絢爛豪華な大阪城と、日本全国からお金と商品が集まる大阪の街があるという説得力がありました。
そのような秀吉と、幾度か相対する中で、数正は、徳川が豊臣と戦う事になったら徳川は滅ぼされると確信しました。
数正は、家康や徳川四天王と呼ばれる家臣達に、上記の現状とそこから導き出した結論を伝えますが、家康始め、家臣達は、小牧長久手の戦いの戦における勝利があった為が、数正の意見に聞く耳を持ちません。そればかりか、数正は秀吉に調略されているという噂を流す者までいました。
数正は、徳川家臣団の中で、次第に孤立していきます。
実は、これが秀吉の狙いでした。
秀吉が数正が贈り物への礼を記した手紙に「こういう事をして貰うと、あなたの立場も悪くなるのではないか?」と記したものが残されています。
このような手紙の存在を知れば、家康始め、徳川家臣団が数正が調略されているのではないかと疑問を持つ事も頷く事が出来ます。
秀吉の狙いは、数正の調略ではなく、徳川家中の信頼関係をガタガタにする事にありました。
そのタイミングで、秀吉は、数正に家康に対し「家臣の2,3人を人質にするように」と伝えるよう命じます。
このタイミングで、上記のような内容を伝えれば、家康や家臣団が怒り心頭となる事は明らかであり、事実そうなります。
そして、秀吉の手の平の上にある徳川家中の心は、怒りの矛先を秀吉ではなく、数正に向けていきます。
丁度、数で圧倒的有利にも関わらず、真田の上田城を落とす事が出来なかった時期とも重なり、徳川家中の信頼関係にも揺らぎが見られていた時期とも重なった事も、秀吉に有利に働きました。否、これも秀吉が作り出した物語なのかもしれません。
宗教に入信すると、その宗教を家族や親戚・友人に勧めるように言われます。
この本当の目的を御存知でしょうか?
本当の目的は、家族や親戚・友人を入信させる事ではなく、その人を孤独に追い込む事にあります。
宗教を勧めてくる家族や親戚・友人がいたら、あなたは敬遠するでしょう。
その噂は瞬く間に広がり、誰もあなたの話を聞いてくれなくなります。
そのような孤独な中、優しい手を差し伸べられたら、多くの人はその手を縋るような思いで、掴もうとします。
恐ろしい事に、これが宗教勧誘の真の目的なのです。
数正は、徳川家を出奔する選択をします。
秀吉に、仕えるのです。
秀吉にとっては徳川家の全てを知る者を配下に置く事ととなり、家康にとっては徳川家の全てを知る者を最も恐ろしい敵に置く事になりました。
しかし、ここで1つ疑問が残ります。
数正は、果たして徳川家を裏切る為に出奔したのか、否、徳川家を守る為に出奔をしたのかという疑問です。
確かに、表面的にみれば、徳川家で孤立していく数正が徳川を裏切るという物語は理解しやすいものです。
ただ、数正が出奔をしなければ、豊臣と徳川の戦となり、後の北条のように徳川は滅ぼされていたかもしれません。
事実、数正が出奔した事により、家康は、秀吉に仕えるというように外交の姿勢を一変しました。
秀吉が家康に命じた「家臣の2,3人を人質とするように」という命にも、数正が秀吉の配下となる事で、丸く収まると捉える事も出来ます。
若しかしたら、数正は、徳川を裏切ったのではなく、徳川を守る為に、出奔したのかもしれません。
日本において、5重の天守がみられるのは、松本城と姫路城だけです。
そして、その天守を築いたのが、数正です。
徳川を守る為に、徳川を監視する為の、城を築城した数正。
威風堂々と建つ黒塗りの城、松本城。不器用な男の、不器用な人生を描いたかのような頑固そうな城は、まさに数正の城です。
時代を後から振り返ると、後に徳川の世を築く事が出来たのは、数正が出奔したからかもしれません。