アーニャがね、よく言うんですよ。危ない目に遭っても、ははが助けてくれるから大丈夫だって。あの子が笑顔ではしゃいでいられるのは、ヨルさんが安全基地になってくれてるから3

 

 「ちづるさん、子供はお好き?」

 「えっええっ、やっぱり見てるのは可愛いですし、底無しの元気には活力を貰えます。…でも時々、もしかしたら苦手なのかなとも思います。どこか気を遣ってしまう自分もいて。」

 

 「…。大人になるってそういう事よね。子供は大人が思っている以上に多くの事を見ているし、純粋なだけに何か見透かされてるような気にもなる。尊重しようと思えば思うほど、無責任な事は言えないし、とはいえ一人で生きていけるほど、学びを必要としてない訳でもない。自分が大人でいられているのか、それを問う鏡。それが子供…。」

 「でもね、和也を見てると思うの。子供が必要としてるのは、大人の教えじゃなくて、同じ目線で立ってくれる大人なんじゃないかって…ああして等身大で真正面から遊んでくれる大人の存在に、実際子供たちはかなり救われてる。」

 『彼女お借りします』和也母と水原の会話です。

 

 

 何でも話せる相手、どのような感情も丸ごと受け止めてくれる相手が自分にはいると信じられる事。

 そんな精神的な親密さは、私達が人生というゲームを攻略していく上での絶対条件ではありませんが、必要条件ではあると思います。

 精神的な親密さが満たされていれば、私達の心は満たされます。

 ただし、このような親密さは、相手がこちらを決めつけている時には、生じません。

 あくまでも、相手がこちらを知ろうとしてくれている時にのみ生じます。

 

 子どもは、親との精神的な繋がりがあって初めて、安全を感じる事が出来ます。

 親と精神的にきちんと繋がっている子どもは、いつでも安心していられるのです。

 成熟している親は、自分自身を認識しているので、自分の感情はもとより、子どもの気持ちに寄り添う事が出来ます。

 

 彼女・彼らは、子どもの気持ちを察し、真剣に受け止める事が出来ます。

 だから、子どもは安心して、親に慰めて貰ったり、喜びを伝えたりする事が出来るのです。

 親は、自分と一緒にいる事を楽しんでいて、自分の気持ちをぶつけても大丈夫であると、子どもは思えるのです。

 

 

 これに対して、精神的に未熟な親は、自分の事しか考えていないので、子どもが心の中で抱えている思いに気付きません。

 これに加え、子どもの気持ちにとり合わず、精神的に親密になる事を避ける傾向にあります。

 自分自身の精神的な欲求にすら戸惑う為、子どもを精神的にサポートする方法も、わかりません。

 

 このような親は、子どもが感情を持て余すと、どうして良いかわからずに怒り、慰めるかわりに罰を与えたりします。

 このような親の反応が、親に助けを求めたいという子どもの本能的な思いを抑えつけ、精神的な繋がりを持つ為の扉を閉ざしてしまいます。

 

 

 親のどちらか一方、或いは2人ともに未熟で、子どもを精神的にサポート出来なかった場合、子どもは親に寄り添って貰っていないと感じながらも、何が問題なのかは、はっきりとわかりません。

 「心にぽっかり穴が空いたみたい」「独りぼっちでモヤモヤする」等と思うかもしれません。

 親との心の触れ合いがなければ、こうした虚しさを覚えるのは正常な反応である事さえ、子どもは知る由もありません。

 

 大人になっても、精神的な孤独を感じている人や人と親密な関係を築き継続する事が出来ない人は、子ども時代に親と心の触れ合いをする事が出来なかったというのが、私が現在考えている仮説です。