「なぜ自分が人よりも強く生まれたのか、わかりますか?」
「弱き人を助けるためです。生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者は、その力を世のため人のために使わねばなりません。天から賜りし力で人を傷つけること、私腹を肥やすことは許されません。弱き人を助けることは、強く生まれた者の責務です。責任を持って果たさなければならない使命なのです。決して忘れることのなきように。」
「私は、もう長く生きられません。強く優しい子の母になれて幸せでした。あとは頼みます。」
…母上、俺の方こそ、貴方のような人に生んでもらって光栄だった…
『鬼滅の刃』煉獄杏寿郎の母の言葉と煉獄杏寿郎の脳内言葉です。
親から「ありのままの自己」に向き合って貰えないと、子どもは、親との繋がりを築く為に、どうすればいいのかを考えます。
そして、家族の中で居場所を確保する為に「ありのままの自己」でいる代わりに「役割としての自己」を作り出します。
そのような中で、いつの間にか「役割としての自己」が「ありのままの自己」に取って代わっていきます。
「役割としての自己」の根底には「何とかして皆の関心を自分に向けたい」という苦しい思考があります。
「役割としての自己」は、無意識のうちに身につけていきます。意図して「役割としての自己」になっていく人はいません。
相手の反応を見ながら、少しずつ創り出し、それが自分の居場所を手にする1番良い方法であると考えていきます。
この結果、大人になっても、かつて親に対してそうであったように、誰かに関心を持って貰いたいという願いを持ったまま、役割を演じ続けます。
子どもの頃、親の欲求に一致する役割をみつけると、子どもは早急にその「役割としての自己」になりきります。
しかし、家族の中で求められる存在になっていく過程で「ありのままの自己」はどんどん見えなくなっていきます。
そうして大人になった時に、親密な人間関係を構築する事が出来ないという壁に直面します。
結婚=幸せという価値観は過去のものとなった現代。
結婚に向かない人、否、結婚をしてもほぼ100%パートナーと長期的な関係を構築する事が出来ない人が、どのような人であるのかは様々な研究により答えが出ています。
その人とは、人と衝突した時に衝突した相手と向き合う事が出来ない人です。
結婚とは、パートナーと幾度も衝突し、その度にパートナーと向き合い、乗り越えていく物語です。
確かに、衝突はしんどいものです。しかし、パートナーと衝突する度に避けていては、結婚という物語を紡いでいく事は出来ません。
そして「役割としての自己」を演じ続ける人は、衝突を避ける傾向にあります。
「ありのままの自己」をきちんと表現出来なければ、パートナーには共感して貰えません。
共感がなければ「役割としての自己」同士が仲良しごっこをしているだけに過ぎません。
役割を演じる努力は、自分自身でいるよりも、はるかに疲労します。
「役割としての自己」は、いつまでも演じ続けられません。
遅かれ早かれ、自分が本当に求めている欲求が湧き上がっていきます。
約3年前、日本中を涙で包んだ『鬼滅の刃無限列車編』の煉獄母と煉獄のやり取り。
映画館にいる殆どの人が涙する中、私は、強い違和感を覚えました。
これは煉獄母が煉獄に与えた呪いではないかと感じたのです。
精神的に未熟な人がよく言う言葉として「あなたの為を思って。」という言葉があります。
呪いには、わかりやすい悪意の呪いと、わかりにくい善意の呪いがあります。
私は、当人にそのつもりがないのに相手を縛る善意の呪いの方が、たちが悪い上に、強力であると思います。
そして、その善意の呪いが最も発生しやすいのが、家族の間です。
日本において「ありのままの自己」で生きていく事は、難しいかもしれません。
また、子どもは、家族を選ぶ事も出来ません。
それでも、ずっと「役割としての自己」を演じ続けるのは、自らに呪いをかけ続けているようなものです。
「ありのままの自己」でいられる環境を作る。
結婚=幸せではない現代においても、この点において結婚というものは、とても有効な方法であると思います。