「影山って、意外とすげえ気ィつかうよな。さっきのも、特別変な事言ってるワケじゃないだろ。」
「やっぱ、中学の頃のモメ事気にしてんスかね?」
「昔の事引きずるタイプに見えないのにな。」
「‥何が重たい事なのか、それは人による。影山には中学の時の一本がチョーー重い一本なんだろ。」
「でもさ、詳しい事情知らないけど、1コだけ確実なのは、今の影山は自分は間違っている可能性があるってわかってるって事。多分、中学のチームメイトに体当たりで気付かされた事。」
『ハイキュー』木下と山口、成田、縁下の会話、そして菅さんの言葉です。
日本人は、自分は否定されたくないのに、他者を否定したがる。
これが、現在、私が日本人に抱いている世界観です。
日本人は、自分と異なる意見を言われる=否定と捉えている人が多いです。
真っすぐ否定してもそれを多様性という世界観から受け入れる欧米型コミュニケーション。
相手の言葉の行間や空気等から察するという日本型コミュニケーション。
コミュニケーションを対比すると、真っすぐな否定に慣れている欧米の人と比較し、日本人は否定される事に慣れていないと捉える事が出来ます。
先日、オンライン英会話にて、私が「猫は猫が好き。」という話をしました。
すると、講師の方は「私は、猫は嫌い。噛まれた経験があるから。」等と返答をしてきました。
この会話が、初対面で出来るのが、欧米のコミュニケーションです。
では、何故、日本人は否定される事に慣れていないのでしょうか?
①村社会的な考え方
②NOという直接的な表現がない
①村社会的な考え方
日本での人々の暮らしの中では「村社会」という風習が、良くも悪くも、現在も継続されています。
村社会とは、同じ生活習慣を持つ人々が序列を作って集まり、その関係性のルールからはみ出すものは、排除されるコミュニティの事を言います。
周りと異なる考えを持つ異分子は、村から追放されます。
このような、遺伝子や世界観・文化が、今も日本人のDNAに深く刻み込まれています。
その為、自分の判断で否定するよりも「常識的に○○である」「〇〇すべき」等、周りの目や社会常識の様なものから外れた人や考えに対して、否定する傾向があります。
現在では薄れてきましたが「〇〇歳になったら結婚しなければいけない」「結婚したら、子どもを作らなければならない」等の考えも、村社会が背景にあります。
このような背景から「否定される」=「村社会にいられなくなる」と無意識的に感じ、否定される事に対して、強い不安感や恐怖心を抱くのではないかと、私は考えています。
この続きは、また明日。