「馬鹿は楽でいいな…烈火ーそう言って単純にできる…。」
『烈火の炎』紅麗の言葉です。
バカに感情をかき乱されない方法を模索しています。
そこで、バカを通常と違った方法で捉えてみたいと思います。
絶対的なバカは、存在しないという見方です。
確かに、バカとは相対的なものです。
要するに比較の問題であり、人は皆バカで、程度が違うだけという考えを持つ事が出来ます。
これに加え、バカを判断する基準となっている道徳観にも、絶対的なものはなく、人によって緩い部分があったり、厳しい部分があったりします。
その為、ある人がバカかどうかは、個人の見解に左右されます。
このように捉えると、バカという言葉は、人それぞれの個人的な好みを反映しているだけであると考える事も出来ます。
上記のように捉えると、人は皆誰かにとってバカであるという結論に至ります。
1人1人がバカを独自に評価する為、そのような評価を集めて比較すると、一致する部分も一致しない部分も出てきます。
しかし、これでは皆違って皆良いのような学校で教わる非現実的な話となってしまう為、バカから皆さんを救う事は出来ません。
その為、もう一歩踏み込んでみたいと思います。
私が認識しているバカとは、ある時ある場所で、困った状況になった場合に、本人以外の大多数の人がバカだと思うような人の事を指します。
たとえば、電車の中で食事をしている人、車から大声を挙げて歩行者を罵る人、会議中に自分が大変であるという事を延々と話す人等です。
私は、人は誰しも、少なからず立派な人間になろうと努力をしているものであると信じています。
それは何も大きな事をするわけではなく、挨拶をする・笑顔を向ける・相手の気持ちを想像する等、多くの人が自然とやっているこのような事も、突き詰めれば立派な人間になろうとしている為の行いであると思います。
しかし、ここで不思議な事が起こります。
バカをバカだと思う人は、バカと比較すれば立派な人間のはずなのに、バカを止める事が出来ないのです。
先程バカの例を3つ記しましたが、自分の事をバカの目撃者であると思っている人達は、自分の方が人間的に上であると思っているはずです。
それであれば、誰かの振る舞いが間違っている・危険である・非生産的である場合、周りにいる私達がすべき事は、その人よりも優れた人間性を発揮する事ではないでしょうか。
具体的には、少しも怒らずに、困った状況を立て直し、バカによる被害を食い止めるのです。
でも、それが出来ません。何故でしょうか?
それは、昨日描いたバカの特徴が、モラルに欠けているだけではないからです。
バカである事はただの欠点だけではなく、醜悪でもあるという特徴を持ちます。
バカである事は、人が持つ欠点の中でも、アリ地獄の如く、抵抗すればする程、脱出が出来なくなる複雑性を秘めているのです。
この続きは、また後程。