ピンチは次のステージに行くチャンス

 徳川家康の人生最大のピンチは、「伊賀越え」でしょう。
伊賀越えとは、織田信長が本能寺の変にて明智光秀に討たれた後、家康が三河に帰るまでの道中のことをいいます。
 信長が討たれた時、家康の周りには30人程度の部下しかいませんでした。
光秀側の兵士や伊賀忍者、落ち武者狩り等、家康の周りには敵ばかりの状況でした。
 当時の家康は信長と同盟を結んでいたものの、信長の家臣のような立ち位置でした。
 信長が討たれた時、家康は自らも京に戻り、自殺すると言います。
これは、信長が仮に生きていた時のための家康が懸けた保険でしょう。
 どのような決断をする時にも保険を掛ける家康らしい発言です。
家康は部下と話し合い、伊賀越えをし、三河に戻り、兵を整え光秀を討つ決断をします。
 この時から家康に天下統一の野心が芽生えてきました。
しかし、この野心が成就するのは秀吉の台頭により、伊賀越えの22年後になります。
 この伊賀越えをともにした家臣には本田・榊原・井伊等、後の徳川四天王と言われる面々がいました。
家康とともにこのピンチを乗り切った家臣は、この後生涯を徳川家のために尽くしていきます。
 当時、田舎であった江戸への領地変えを命じられた時も、決して家康の下を離れませんでした。
伊賀越えというピンチに直面した家康は、天下統一という野心を抱き、成功させます。
 ピンチの時には、通常であれば手の届かないドアに手を伸ばすことができるチャンスなのかもしれません。