…これは、僕が最高のヒーローになるまでの物語だ…
『僕のヒーローアカデミア』です。
「古代史」がつまらなく感じる理由の1つに「摂政」「関白」「上皇」等、その時の時代により、異なる役職の人物が時代の表に出てきて、政治を司っており、学校においては丸暗記をさせられていた事が挙げられます。
それも、信長・秀吉・家康程、キャラが立つわけでもなく「お前、誰だよ」とツッコミたくなるような人物の丸暗記程、退屈なものはありません。
そして、時代は「古代史」から「中世」に移っていきます。
「古代史」から「中世」へのターニングポイントは、武士の誕生です。
今日は「古代史」のエピローグを、案内します。
道長の時代を頂点とした「摂関政治」が終焉し「院政」が開始されるのは、11世紀終盤です。
「院政」とは「天皇」が「上皇(譲位後の天皇の呼称)」や「法皇(上皇が出家した時の呼称)」となり、政治の実権を掌握し、国を統治する政治形態を言います。
8歳の息子である善仁親王(堀川天皇)に譲位した白河上皇が「院庁」を開設した1086年が「院政」の始まりです。
白河上皇は、堀川・鳥羽・崇徳の3代の天皇の間、実に43年に渡り、政界に君臨していました。
権力とは、徐々に腐っていくもの。
43年もの間に、白河上皇は、ルールを無視して勝手に人事を行ったり、寺の落成式が雨で3度中止になった事に腹を立て雨水を器に入れ獄に繋いだりと、かなりの横暴振りと感情の赴くまま謎の行動に出ています。
…思い通りにならぬのは、加茂川の水、双六のサイ、僧兵だけ…
白河上皇が、豪語した「天下三不如意」は、後の世まで語り継がれています。
「院政」の中枢機関じゃ「院庁」です。
「院庁」は「院(上皇の御所)」に設置された、上皇の私的な機関です。
しかし「院庁」から出される「院庁下文(いんちょうくだしぶみ)」や「院宣(いんぜん)」には、絶大な効力があり「朝廷」は、これに逆らう事が出来ませんでした。
何故でしょうか?
「上皇」の力が強大になったのは「上皇」が直属の武力を有していた事が、大きく関係します。
「北面の武士(院の北側において警備を行わせた)」と称する武芸の達人を集めて作った「上皇」の親衛隊です。
「武士」の活躍は「貴族」にとって、驚きとともに、恐怖でした。
当時の「貴族」は、例外なく「仏教信者」です。
その為、無理な要求を掲げて入洛してくる「僧兵」には、仏罰を恐れて、手出しが出来ませんでした。
ちなみに「僧兵」の殆どは、頭を丸めただけの腕自慢の「農民」であり、御経を読める者も、殆どいませんでした。
ところが「北面の武士」は、平然と「僧兵」を討ち殺していきます。
これは「仏教信者」である「貴族」には出来ない事でした。
このように「上皇」に子飼いの武士がいる事が、そのまま「院庁」の権威を増大させる事になります。
「院政」は、白河・鳥羽・後白河と3代100年にも渡り、続いていきます。
しかし、皮肉にも「武士」を重用し過ぎた結果、強大化した「武士」に政権を譲るという結末を迎えてしまいます。
歴史を学ぶ事で、人生の予習をする事が出来ます。
大人になってからの勉強は、選び放題・学ぶ放題です。
あなたの人生のモデルを、親や友人・上司等にしておくのは、非常に勿体ないです。
人生のモデルを、信長や秀吉、家康にする事が出来るのです。
その贅沢を、堪能しない理由等、ありません。