…1987年3月20日、当時8歳の少女が窓から侵入した犯人に襲われ、レイプされました。犯人は、バッグとジャケットを盗んで逃走。被害者の少女は、同日病院で検査を受けました。警察は被害者の下着と、犯行があったベッドのシーツを入手。下着には、精液が付着しており、シーツからは何本かの体毛が見つかりました…
警察は、被害者の証言を基に、容疑者の似顔絵を作成します。
その後、犯行現場の近くに住む、似顔絵に似た18歳の青年を職務質問します。
被害者の青年を少女に会わせると、少女はその青年が犯人である確証は「60%か65%」と答えました。
裁判が始まると、犯行現場で採取された体毛の分析結果が、検察側の主な主張でした。
しかし、この分析結果の大半は、検察側が依頼した専門家によって捏造されていた事が、後に判明します。
青年は、犯行時には「家で寝ていた」と証言したにも関わらず、有罪となり、懲役40年を宣告されます。
2000年、イノセンス・プロジェクトチームが、このケースを引き受けます。
そして、被害者の下着に付着した精液のDNA鑑定を行った所、青年とは別人の精液である事が判明しました。
しかし、青年が犯人ではないという決定的な証拠が出たにも関わらず、検察は誤りを認め、訴えを取り下げる事はしませんでした。
否、そう出来なかったと表現する方が正しいかもしれません。
DNA鑑定の結果を告げられたマイケル・ダグラス州検事の反応は、ある意味奇想天外でした。
ダグラス州検事は、青年を「キメラだ。」と主張したのです。
キメラとは、1人で2種類のDNAを持つ人間の事です。
しかし、キメラである確率は10万分の1という数字です。
その後、新たな鑑定で、青年はキメラではない事も証明されました。
驚くべき事に、この結果が出ても、ダグラス州検事は、青年が犯人である事を疑う事はありませんでした。
ダグラス州検事:精液の出所は、複数あったと考えられます。
チーム:どういう事ですか?説明してください。
ダグラス州検事:(被害者が)他の男性と性交渉をしていた可能性であるという事です。※被害者は当時8歳
ダグラス州検事:被害者の姉が、他の男性と性交渉をしていたかもしれません。※被害者の姉は当時11歳
ダグラス州検事:第三者が犯行現場にいたかもしれません。被害者の父親の精液が付いた可能性もあります。
チーム:例えば、どんなふうに?
ダグラス州検事:父親が8歳の娘の下着に射精したかもしれません。娘のどちらかと、性交渉をしていた可能性もあります。
記録では、上記のようなギャグかのような主張が、249ページに渡り、続きます。
ダグラス州検事は、要約すると①8歳の少女が性的に活発だった②被害者の11歳の姉が性的に活発でその際は被害者の下着をつけていた③父親が娘と性的な関係を築いていたと、3つの主張をしています。
勿論、もう1つ確率の高い可能性があります。犯人は別にいるという事です。
しかし、その可能性を現実のものにするには、ダグラス州検事が、自分を正当化するのをやめ、証拠をありのままに受け入れる必要があります。
結局、青年は無罪を勝ち取ります。
大多数の検察官は、自分達がやっている事は単なる仕事ではなく、使命であると捉えています。
彼ら彼女らは、自分達の能力に強い自負があります。
心理学者エリオット・アロンソンが行った実験があります。
アロンソンは、学生を2つのグループに分け「性の心理学」に関する特別な討論会への参加資格を与えると告げました。
ただし、実際に討論会に参加するには「加入儀式」を受けなければなりませんでした。
1つ目のグループはに課された儀式は、官能小説の過激なセックスシーンを読み上げるという、学生にとって非常に恥ずかしいものでした。
2つ目のグループに課された儀式は、辞書に載っている性的な単語を読み上げるという、比較的簡単なものでした。
その後、学生達は討論会に招かれ、そこでは事前に行われた討論会の録音テープが流されていました。
この録音テープには、仕掛けがありました。
意図的に退屈な内容にしておいたのです。
普通に聞けば、誰もが参加した事を後悔するような内容です。
その後、学生達に感想を聞きました。
さほど恥ずかしくない加入儀式をした2つ目のグループからは「つまらなかった。」等という感想が聞かれました。
しかし、恥ずかしい加入儀式をした1つ目のグループからは「わからない事をわからないと言える、あのような人達と討論がしたい。」等という感想が聞かれたのです。
この現象を、心理学では認知的不調和と呼びます。
仮に、あなたが大変な努力をしてまで、或るいは恥ずかしい思いまでして、参加した討論会が、嘘の様につまらなかったらどう感じるでしょうか?
つまらないと認める事は、わざわざ頑張った自分がバカだったと認める事にもなります。
その状態で、自尊心を守る為には、素晴らしい討論会であったと思い込むしかありません。
その為、内容も発言も高く評価し、事実の見方を変え、都合よく解釈するのです。
上記の検察も、認知的不協和の状態にあります。
検察官になる為には、司法試験を受け、その後何年も実務研修を積まなければありません。所謂、厳しい加入儀式です。
そして、殺人事件の操作では、自分の家族の顔も見られない程、懸命に働き続けます。
しかし、その努力の末に刑務所に送り込んだのは、無実の青年だったという事実を突きつけられたら、どうでしょうか?
これ以上に強力な認知的不協和はありません。
この現象は、医師にも非常に似た所があります。
「最善を尽くしましたが、期せずしてこのような事が起こってしまう事もあります。」
「何故開示情報が必要なのですか?いずれにしても、患者が亡くなるのは、時間の問題でした。」
「患者の家族に詳細を伝えても、余計に辛い思いをさせてしまうだけです。」
あなたも、上記のような医師の説明を聞いた事があるのではないでしょうか?
これらの言葉は、臨床医が自分のミスや守秘義務を正当化する為に、実際に、人が変われど、何度も言ってきた言葉として記録に残っているものです。
先の検察官とは、言葉こそ違えど、内容は不気味なまでに酷似しています。
認知的不協和は、誰にでも生じます。
誰もが、自分の間違いを認めるよりも、自分を正当化する事を、無意識に選んでしまいます。
認知的不協和を回避する方法は、2つです。
1つ目は、自分は常に認知的不協和の状態にあると意識する事。
2つ目は、あえて間違えたり、失敗するであろう事に挑戦する事です。