…私は自分に零落を感じ、敗者を意識する時、必ずヴェルレエヌの泣きべその顔を思い出し、救われるのが常である。生きて行こうと思うのである。あの人の弱さが、かえって私に生きて行こうという希望を与える。気弱い内省の窮極からでなければ、真に崇厳な光明は発し得ないと私は頑固に信じている…
太宰治『服装に就いて』の一説です。
…落語は、英雄譚じゃない。見栄っ張り、呑気や助平に、お調子者。完璧に成れない普通の人間の失敗を語る芸。それ故に、弱さもまた武器になり得る。弱くてもいい。それも、また人としての味だ…
『あかね噺』阿良川志ぐまの脳内言葉です。
読者も、太宰の弱さが「かえって私に生きて行こうという希望を与える事がある」事が太宰文学の懐の深さです。
強さや希望だけではなく、弱さや絶望が、翻って生きて行こうという気持ちを起こさせる事があります。
志ぐまの言葉通り、落語には、駄目な人ばかりが出てきます。
落語の奥深い所は、その駄目さをバカにしたり、否定したりするのでないのは、中学生が友達の事を「お前、バカだなあ」と笑うように、共感して皆笑うからです。
自分も、どこか駄目な所があるからこそ、笑えるのです。
太宰の文学と落語が繋がった瞬間。
その瞬間が、私にとって、何よりもの幸福です。