今までおっ父の芸はスゴいって憧れて追いかけて、その所為で見えなくなってた。おっ父の芸の本質。おっ父は、あの人達みたいに強くない。だからこそ、おっ父の語る人は、あたたかくてやさしい。そうだ私はーおっ父の弱さが好きだったんだ

 

 …人生を幸福にするためには、日常の瑣事(さじ)を愛さなければならぬ。雲の光、竹の戦(そよ)ぎ、群雀の声、行人(こうじん)の顔ーあらゆる日常の瑣事の中に、無上の甘露味を感じなければならぬ。人生を幸福にするためには?…

 …しかし瑣事を愛するものは、瑣事のために苦しまなければならぬ。人生を幸福にするためには、日常の瑣事を苦しまなければならぬ。雲の光、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔ーあらゆる日常の瑣事の中に堕地獄の苦痛を感じなければならぬ…

 芥川龍之介『侏儒の言葉』の一説です。

 

 

 芥川龍之介が『羅生門』『鼻』『河童』等を執筆した時に暮らしていた北区田端の旧居は、弊社から1㎞程の場所にあり、私もそちら方面に行くと、旧居跡に立ち寄り、芥川の言葉を想いだす事が日課となっています。

 

 上記の一説、前半の部分は、日常のささやかな細部を大切にしその美しさと素晴らしさに気付いていく事が、人を幸福にしていくと言っています。

 このような文言は、あなたも何度も見てきて、現代でも多くの人が主張をしている事です。

 ところが、芥川はそこで終わりません。

 

 ささやかな事を愛する人は、ささやかな事にも苦しまなければならないと言っているのです。

 たとえば、道端の花の美しさに気付く人はその花が枯れていく悲しさにも気付いてしまう、蝶が飛ぶのを美しいと感じられる人は虫の死骸が道端に転がっている無残さにも気付いてしまいます。

 味噌汁が美味しいというだけで幸せな気持ちになる人は、味噌汁が美味しくないだけで悲しい気持ちになります。

 

 

 ささいな事で幸せを感じる事の出来る人は、ささいな事で辛さも感じてしまうと、芥川は言っています。

 これは非常に鋭い指摘であり、翻って、意外にも多くの人がこの事実に気付いていないのではないでしょうか?

 職場に不機嫌な人がいると、あなた自身も嫌な気持ちになるといった経験は、誰もが持ち併せているのではないでしょうか?

 

 「気にするな」と人は言いますが、気にならない人は最初から、不機嫌な人がいる事にすら気付かないものです。

 勿論、ささいな幸せにだけ目を向けられたら幸せかもしれませんが、ささいな幸せに気付く事が出来る人はささいな事で辛さを感じてしまう事は、自然の摂理なのです。

 そのバランスが取れる事が非常に大切なのですが、中々上手くはいかないもの。

 

 私は、ささいな幸せに気付くとともに、ささいな事で辛い気持ちになってしまう人に向けて、文章を記しています。