会津松田家というのは、ほんのかりそめな恋から出発している

 

 …会津松平家というのは、ほんのかりそめな恋から出発している…

 『王城の護衛者』のプロローグです。

 

 恐妻家の2代将軍、徳川秀忠は、生涯1度だけ浮気をします。

 生まれた子どもが、初代会津藩主の保科正之でした。

 優秀で厳格な保科は「家訓」15カ条を定めました。

 

 その第1条は「我が子孫たる者は、将軍に対し一途に忠勤をはげめ。他の大名の例をもって我が家を考えてはならない。もし、我々の子孫で二心をいだくような者があれば、それは我々の子孫ではない。家来たちは、そのような者に服従してはならない。」となっています。

 

 そして、この家訓が、幕末にかけての会津藩主・松平容保を縛ります。

 

 1862年容保は、京都守護職への就任を要請されます。

 容保は固辞しますが、徳川慶喜や松平春嶽の執拗な要請に応え、京都守護職に就きます。

 過激な長州藩を嫌っていた孝明天皇は、容保を歓迎し、親しく声を掛けるとともに、直筆の手紙も渡されます。

 感激した容保は、生涯この手紙を肌身離さず持っていました。

 

 容保は、幕末政治の伏魔殿に足を踏み入れ、薩摩と薩会同盟を結びます。

 「蛤御門の変」に勝利して、長州藩を京都から追い出す事に成功します。

 配下の新選組も「池田屋事件」等で、血の雨を降らせます。

 

 

 しかし、その後、薩摩は、密かに幕府を見限り、西郷・大久保らが「薩長同盟」を結びます。

 さらに、孝明天皇も崩御し、容保は次第に孤立を深めていきます。

 時代は雪崩のように進み「大政奉還」「鳥羽伏見の戦い」と続きます。

 結果は、幕府軍の敗北で、最前線で奮戦した会津藩・新選組も多くの死傷者を出します。

 

 それでも、大阪城の幕府軍は2万人で、京都の薩長軍は2千人程でした。

 勝機は十分過ぎる程あったにも関わらず、慶喜が言った言葉は「逃げる」でした。

 容保は怒りに震えますが、ここでも「家訓」がのしかかります。

 

 徳川の命に背く事は、祖先に背く事でもあったのです。

 悪魔は、容保に、戦うのだと囁きます。

 慶喜は「江戸に帰って、事を決める。全ては、それからだ。大阪では何とも出来ぬ。」と言います。

 容保は、家訓と慶喜の言葉の魔術にはまってしまいます。

 

 江戸に戻った慶喜は、上野・寛永寺に謹慎し、さんざん利用した容保をあっさりと捨ててしまいます。

 慶喜は、容保が江戸城に入城する事さえ禁じました。

 

 維新軍の標的は、会津藩に絞られました。

 1カ月の籠城戦の後、会津若松城は落城します。

 会津藩の戦死者は3千人を数え、城下は略奪されます。

 果たして、そこまでの罪が、会津にあったのだろうかと考えてしまいます。

 

 信じてきた信念や信用している人の言葉は、時に武器となり、時に私達を縛るものにも変わります。

 そんな会津の縛りが、ほんのかりそめの恋から生まれている所が、物語に深みを与えてくれます。