「か影山は、元気か?」
「おう。テスト期間以外は。」
「そうか。」
「何で?」
「…なんつーか、昔とはだいぶプレースタイル変わってたしよ…。」
「…お前は中学の事気にしすぎ。お前は、精一杯やったろ。」
「別にただの雑談だろ。」
「…影山のトス打たなかったってヤツか?でも、ケンカするくらい普通だろ。」
「?…ケンカ?」
「ゆずれなくてケンカすんの普通だ。だから、影山も大丈夫。」
『ハイキュー』金田一と日向の会話、国見と金田一の会話、再び日向と金田一の会話です。
近年、心理的安全性という言葉が、組織経営等で注目をされています。
この背景には、対人関係の不安により、従業員の学習が阻害され、組織そのもののパフォーマンスが下がっていくという現象が、数々の研究により明らかにされているというものがあります。
学習効率が人間の感情により、左右される事は、様々な実験により証明されています。
働く人の心理的安全性が確保される事が、パフォーマンスを上げる環境になる事は間違いありません。
しかし、私は心理的安全性という言葉が持て囃される事に、危機感を感じている一面もあります。
心理的安全性を重視するあまり、生ぬるい人間関係のみが構築され、実績を残す事も出来ないような抽象的な目標ばかりが立てられる懸念です。
私は、講師等をする時には、まず「日本人は意見が違う=この人は自分の事が嫌いと感じる人が多いです。意見に、良いも悪いもありません。あるのは、意見が違うという事実だけです。意見が違う事を恐れずにしましょう。さあ、今日もあなたの意見を聞かせて下さい。」等と言うようにしています。
日本の教育制度の中で育つと、人と異なる意見を言ってはいけない、若しくは間違ってはいけない等という気持ちが頭を過ぎり、何も発言出来なくなります。
間違ってはいけない・意見を言ってはいけない・質問は邪魔という親や教師、そして、空気の元、育ったからでしょうか。
しかし、意見には、正しいも間違いも、ありません。
人がそれぞれ違うように、意見がそれぞれ違うのは、当たり前の事です。
ただ、違うだけであり、意見が違うから、その人の事が嫌いというわけではありません。
違うのは普通の事なので、この違いを認める事がコミュニケーションの基本となります。
子どもが自分の意見を言う為には、子どもが安心して話せる環境を、親が用意する事が最優先です。
「親の言う事を聞きなさい」では、子どもから発言する機会を奪ってしまいます。
このような親の元で育つと「どうせ言っても無駄」と子どもは感じ、親と会話する事を諦めてしまいます。
結果として、主体性のない、指示待ちの子どもが育つ事になります。
自分の思っている事を言ってもいいと子どもが思える事、また、否定や批判を受けるのではなく、一生懸命自分の意見に耳を傾けてくれる人がいると思える家庭を作る事が大切です。
そんな子どもにとっての安全基地があるからこそ、安全基地を拠り所として、子どもは様々な挑戦をする事が出来るようになります。