「横一列でスタートを切った あの日の僕らはもういない 君の行く場所に 僕の行く場所に それぞれは必要ないから」
『アトラクトライト』の歌詞です。
小学校で歌う「1年生になったら友達100人出来るかな」という歌がありますが、この歌詞は間違いです。
私は、この歌も友達をたくさん作らなければいけないという洗脳の一旦をなし、さらに言えば、いじめを助長しているとも捉えられると考えています。
学校で教わる事は、ほとんど間違いであると感じています。
私は、中学生の頃から、教師という存在が嫌いでした。
明らかに依怙贔屓をする教師の言う事を何故聞かなければならないのかわからず、反発し、テストの点数は良いにも関わらず、成績は良くありませんでした。
高校では、私が所属していたサッカー部の生徒が勉強が出来ない奴が多かった為、勉強や読書が好きな私は逆に目立ち、教師達から良くして貰った印象があります。
それでも、サッカー部の教員に戦術の意図を尋ねたり、自身のプレイの意図を伝えると、生意気と捉えられ、試合に出られない事も多々ありました。
そのような中でも、私のサッカーのファンのような教員が複数存在し、試合の度に足を運んでくれ、試合の翌日は私とサッカーの話で盛り上がりました。
教頭がフリーキックの蹴り方を教えてほしいと言い寄って来た時には、笑ってしまいました。
このように、私に良くしてくれた教員もいれば、教員の存在に苦しめられた時期もありました。
1度も社会を経験した事のない教師が、生徒の悩みを聞いたり、道徳を教えたり、進路相談をしたりする事は荷が重いと感じています。
カウンセリングの勉強もした事のない教師が、自身の経験と感想だけで、生徒の悩みを一刀両断にする事は、生徒を失望させます。
道徳の授業等は性善説で溢れており「相手が良い人ならば」という前提条件が必要である事を、おそらくどの教師も気づいていません。
進路相談に至っては、1度も社会を経験していない教師よりも、社会で仕事をしている両親の方が、余程適切な意見を伝えられるのではないでしょうか。
時代は、変化しています。
教師も1度社会を経験した人でしかないれないようにしたり、生徒の悩みを聞くのは心理学の専門家、道徳を教えるのは起業家、進路相談をするのもサラリーマン等にしたらどうだろうかと思います。
教師は、人前で話をする事に関してはプロです。
教師にはそこを活かして貰い、他の教師が知り得ない世界の事は、それぞれの専門家に任せる等してみる等のチャレンジも、変化する時代には必要であると考えます。