大勢は勢ひをたのみ、少数は一つの心に動く

 

 「人生、苦労すると、たいしたことでもないのが、すごーくありがたく思えるものかもよ。」

 『ちびまる子ちゃん』まる子の言葉です。

 

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 駿河国(するがのくに)、遠江国(とおとうみのくに)、伊豆国(いずのくに)、現在の静岡県を舞台に、後世の名だたる武将達が、躍動した時代がありました。

 

 

 「平治の乱」で、源氏が敗れ、源頼朝は、伊豆国に流されます。

 20年の歳月の後、頼朝は、平氏討伐の兵を挙げ、伊豆国を平定します。

 その勢いのまま「壇ノ浦の戦い」等を経て、平氏を滅ぼし、終には奥州藤原氏も討伐し、征夷大将軍となります。

 これが、日本史上、初めての武家政権の誕生です。

 

 

 「応仁の乱」を機に始まった戦国乱世は、全国の大名が地位や権力を奪い合う下剋上の時代でもあります。

 …武田信玄、北条早雲、今川義元…

 駿河や遠江の地も、武将達の戦の場となりました。

 

 そんな時代に誕生したのが、徳川家康です。

 三河国(現在の愛知県岡崎市)で生まれた家康は、今川家の人質として、駿府の今川義元に預けられます。

 この人質の期間、家康は、臨済寺や清見寺で、英才教育を受けます。

 家康の人生を後の世から振り返ると、幼少期に受けたこの英才教育こそが、後の天下人となる人格や世界観等を形成したと表現する事が出来ます。

 

 生き残る為、信長に従う道を選択した家康は、三河統一に邁進します。

 しかし、信長の命で、家康は、浜松への移動を余儀なくされます。

 家康は、ここでも腐る事なく、信玄の侵攻に備え、浜松城を築城し、17年間を浜松の地で過ごします。

 

 信玄との決戦である「三方ヶ原の戦い」では敗れるものの、天は家康に味方します。

 「三方ヶ原の戦い」から間もなく、信玄が急死し、形勢は逆転します。

 その後、家康は、遠江、駿河、伊豆と、現在の静岡県を平定します。

 

 その中で、天下は、信長・秀吉と流れますが、いずれも、家康よりも早くに亡くなり、天下は家康の前に転がり込んできました。

 「関ケ原の戦い」で勝利し、家康は、事実上の天下人となります。

 自ら開いた江戸幕府の将軍職を、息子の秀忠に譲った後は、駿府城に移り住み、大御所として、亡くなる直前まで江戸幕府の実験を握っていました。

 

 

 時は下り、幕末。

 家康が作った江戸幕府は、黒船の来航により、開国への道を歩み始めます。

 

 伊豆の下田沖に停泊していた黒船に乗り、密航を企てたのが吉田松陰です。

 「知行同一」、知識は行動が伴ってこそ生きる事を信条にしていた松陰の目的は、海外を自分の目で見て、その文化・技術を学ぶ事でした。

 

 しかし、松陰の願いは、ペリーに断られ、松陰は牢獄に送られます。

 松陰自身もその後処刑されてしまいますが、松陰の意思は、高杉晋作・桂小五郎・伊藤博文等に受け継がれ、彼らが倒幕を果たし、閉ざされた国であった日本を開かれた国に変え、日本の文化・技術向上を果たしていきます。

 

 

 歴史の敗者側となった最後の将軍、徳川慶喜は、静岡で余生を過ごします。

 宝台院や元大官屋敷では、慶喜は、政治の柵や戦いから離れ、1人の好奇心旺盛な男である慶喜に戻り、趣味に没頭して過ごしました。

 

 

 多くの武将が駆け抜けていった静岡県。

 旅行には丁度良い気候となった現在。都内からも、すぐ足を延ばす事の出来る地でもある為、武将達の足跡を辿る旅に出掛けてみるのも、いいでしょう。