「私は、罪を犯しました。私は‥妻子ある身でありながら、会社の若い女性と関係を持ってしまいました。」
「長年かけて妻と築いた信頼も一瞬で失い、娘は私のことを死んだものとして暮らしています。一体どうすれば、私の罪は赦されますか?」
「コホンッあーまずはその若い女‥女性とすぐに手を切って、奥さんと娘さんに誠心誠意謝ることから始めては?」
「は?そういう話じゃなくないですか?大体アイツが悪いんですよ。1日中ゴロゴロしやがって!私の金でどんどんデブり続けるし!そんな中、若い部下がまんざらでもなさそうだったら、行っちゃうでしょ!!」
「天堂ゴラァ!!!一体どうなってんだ、この教会は!?さっきから、マトモな奴が、一人も来ねぇぞ!!つーかなんでオレが神父やらされてんだ!!」
「当然だ。マトモな奴は、懺悔などしない。代役を立てたのは、ストレスが肌に悪いからだ。」

『ジャンケットバンク』教会に懺悔に来た男性と榊の会話、そして、天堂の言葉です。
♦悪い人間関係は「DDT(恐怖のドラマトライアングル)」の中にある
あなたの周りを、見渡してみてください。
いつも機嫌が良く楽しく暮らしている人がいる一方で、いつも機嫌が悪くトラブルに巻き込まれている人もいます。
☆親子関係がぎくしゃくしている
★パートナーとのコミュニケーションが取れない
☆上司等からのパワハラ
★ママ友との不仲
☆友達からの理不尽な要求
挙げ出したらキリがありません。
上記の人間関係は全く異なるシチュエーションのように感じますが、実は、人間関係のトラブルが生じる関係は、全て根本が同じです。

悪い人間関係は、全て同じパターンで、成り立っています。
①犠牲者
②迫害者
③救済者
♦ドラえもんが、どんな道具を出しても、問題の根本は何も解決していない為、問題は繰り返される
「自分の所に受診に来る人は、大体人間関係に困っていて、全員がこのトライアングルにあてはまっている。」
1968年精神科医のカープマンは、この悪い人間関係を「DDT(恐怖のドラマトライアングル)」と名付けました。
お伽話やアニメ、映画等は、上記の「恐怖のドラマトライアングル」で成り立っている事が、多いです。
わかりやすいのが『ドラえもん』でしょうか。
①のび太:犠牲者
②ジャイアン:迫害者
③ドラえもん:救済者
『ドラえもん』では、のび太は、ジャイアンにいじめられると、いつもドラえもんを頼ります。
ドラえもんは、ポケットから道具を取り出し、のび太の問題を解決します。
一見、問題がないように見えますが、上記のやり取りには、大きな問題があります。
ドラえもんが、道具で問題を一時的に解決しても、暫く経つと、のび太は再びジャイアンにいじめられる事を繰り返すのです。
①のび太:犠牲者
②ジャイアン:迫害者
③ドラえもん:救済者
この関係性では、ドラえもんが、どんな道具を出しても、状況は、何も変わらないのです。
「奴らの目的は、罪を償うことではなく、自分は悪くないと、信じ込むことにある。」
「故にいかに前向きな提案や冷静な忠告よりも、無根拠な同意により高い価値を見出す。」
「壁の向こうに、誰がいてもいなくても、奴らの答えは、最初から変わらない。」

『ジャンケットバンク』天堂の言葉です。
♦「恐怖のドラマトライアングル」は、役割を超えて、ループし続ける
怖い事に「恐怖のドラマトライアングル」は、役割を超えて、無間地獄の様に、ループし続けるのです。
①シンデレラ:犠牲者
②継母・姉:迫害者
③王子様:救済者
『シンデレラ』は、上記の様な関係性が成り立っています。
『シンデレラ」は、ハッピーエンドで終わりますが、その続きを想像すると、不幸が無間地獄の様に、ループし続けている可能性が高いです。
「③救済者」だった王子様は、時が経つにつれ、支配的になり、いつしか「②迫害者」に変わっているかもしれません。
恋は、一瞬の麻薬のようなもの。
恋という麻薬から目覚めてからが、その人の本質が現れるものです。
「②迫害者」となった王子様から逃げるように、シンデレラは新たな「③救済者」を探し始めるかもしれません。
そこで、出逢った男性が「③救済者」となった場合、おそらく、シンデレラとその男性は恋に落ちるでしょう。
これを王子様の視点から見ると、浮気をされた事になり、王子様が「①犠牲者」シンデレラが「②迫害者」となります。
いかがでしょうか?
現実世界にも、よくある話ですよね?
この様に「恐怖のドラマトライアングル」は役割を変えながら、無間地獄の如く、ループし続けます。
そして「恐怖のドラマトライアングル」に登場する人物は、全て人の所為にするという特徴を持っています。
意外に思われるかもしれませんが「③救済者」も、その根本では、人のせいにしながら生きている人である事が多いのです。
♦「恐怖のドラマトライアングル」の登場人物は、ずっと人の所為にし続けて生きていく
あなたは「親ガチャ」という考え方を、支持しますか?
私は「親ガチャ」を支持しており、確実に「親ガチャ」はあると考えています。
「親の所為で、自分の人生台なしだ。」
このように思っている子どもがいたとします。
そうすると、子どもが「①犠牲者」親が「②迫害者」になります。
子どもは、自分の境遇を、全て親の所為にして生きていきます。
☆先生が悪い
★学校が悪い
☆世の中が悪い
仮に、親が子どもを理解してくれるような存在であっても、その子どもは、自分に都合の悪そうな誰か、若しくは何かを「②迫害者」に仕立てて「自分はハズレの人生だった」と言い続けるでしょう。
子どもにとって、親の存在は、とても大きなものです。
残念ながら、子どもを育てるに値しない親がいる事も、事実です。
しかし、親を変える事は出来ません。
親の所為にするのは楽だし、その気持ちは、理解出来ます。
ただ「幸せに生きる」「楽しく生きる」事の条件に「親ガチャ」に恵まれるという条件は、必須ではありません。
「親ガチャ」に恵まれなくても「①犠牲者」になる必要等ないのです。
では「①犠牲者」の生態を観察していきましょう。
♦「①犠牲者」は「①犠牲者」のままでいたがる
この続きは、また日程。