「若利君は、何でバレー始めたの?」
「父親に、少しの間教わった。」
…「左利きは、早いうちに矯正した方が、いいんじゃないかと思って‥。」…
…「!?いや、そんな事ないって‥!」…
…「うちでは、昔からそうしているしねぇ‥。」…
…「あの、でも、すみません。それだけは‥少しでも人と違うものを持っているというのは、きっとこの子の力になるので‥!他の事には、口を出しませんから‥!」…
「父ちゃんは選手?」
「ああ2部リーグの選手だった。」
「会ったりすんの?」
「いや今は、海外にいる。」
「へー!かっけえ!じゃあー若利君スターになれば、父ちゃんも見るね。」
「‥‥そうだな。」

『ハイキュー』天童と若利君の会話、若利君の幼少期の記憶、そして、再び天童と若利君の会話です。
♦普通でない人にのみ、既存のものの延長戦上ではない事を描く事が出来る
…良薬は口に苦く、出る杭は打たれる習ひ…
平賀源内の言葉です。
現在大河ドラマで描かれている源内先生の、十数年程前。
あれほど自由な源内先生も、もがき、苦しんでいました。
当時流行っていた学問「博物学」において、実績を出していた源内は、藩主である松平頼恭(よりたか)に、以前勤めていた時の4倍の給与で呼び戻されます。
しかし、地元の藩に戻った源内を待ち受けていたのは、規則と慣習により縛れらているだけの好奇心の満たされない毎日でした。
源内も、源内先生になる前に、もがき、苦しんでいた時期があったのです。
…むやみに忙しいだけで、自分の研究が、さっぱり前に進まない…
当時の源内の手紙です。
出戻りから、1年半が経過した日。
源内は、辞職を願い出ます。
♦次のステージに行く時には、1度先行きが見えない不安定な時期を経験する必要がある
…考えていては何もでき申さず候、われらはしくじるを先につかまつり候…
源内の言葉です。
源内を手放したくない頼恭は、辞職願いを拒否します。
しかし、源内の辞職の決意は、固いものでした。
源内が、辞職願いを出してから、7カ月。ようやく辞職が認められます。
☆藩を出るのであれば、高松藩以外の藩に仕官してはならない
辞職を認める為に、上記の条件が付されました。
それでも、源内の辞職の決意は、揺るぎませんでした。
この条件により、源内は、生涯どの藩に仕官する事が出来なくなりました。
つまり、浪人として、藩の看板を背負う事なく、平賀源内個人として、世の中に挑むしか道がなくなったのです。
源内34歳の時、若い頃に好奇心の満たされた場所である江戸に、再び戻ります。
源内は、薬品の展覧会開催を、試みます。
①参加資格の撤廃
②取次所を全国に25カ所設け、そこに届ければ源内のお金で江戸まで薬品を運ぶ
①当時の薬品の展覧会には、参加資格があり、参加出来るのは、一部の肩書きのある者だけでした。
源内は、参加資格を撤廃します。
これにより、誰もが価値があると思う薬品を出品する事が出来、誰もが展覧会に参加する事が出来るようになりました。
②現在のように物流が整っていない江戸時代。
出品したくても、江戸まで物を届ける事が、困難でした。
そこで、源内は、当時全国に設けられていた取次書に届けさえすれば、そこからは、主催者である源内が、江戸まで届ける仕組みを作ります。
費用も、主催者である源内持ちでした。
驚くべき事に、江戸時代に、現代のような着払いシステムを構築していたのです。
1762年:東都薬品会開催
源内は、現在の文京区湯島にて、薬品の展覧会を開催します。
出品された薬品は、1,300を超えました。
★トリカブト:蝦夷より出品
☆ジャスミン:琉球より出品
源内の①参加資格の撤廃②着払い方式により、日本全国、蝦夷から琉球に至るまで、様々な国から、薬品が出品されました。
さらに、源内の凄い所は、展覧会の開催だけでは、満足をしない事です。
出品された薬品を『物品品隲(ぶっぴんひんしつ)』という図録にまとめたのです。
これは、現代でいう映画や展覧会のパンフレットの先駆けです。
これにより、限られた期間の展覧会を、展覧会終了後にまで、残す事が、源内の狙いでした。
源内のように知的好奇心が高い人が、図録を観る事で、知的好奇心を磨き、次の源内になっていく。
日本の学問は、普通の人とは違う、知的好奇心の高い人により、紡がれてきています。
「いやあ~若利。お前凄いなあ。でかくなったなあ。本当に強くなったなあ~。いつも見てるぞ~。」
…もう3回聞いたが…
「‥俺は、恵まれている。」
「?」
「もし恵まれていなくても、頑張るのは同じだったと思う。でも、俺の左手(ギフト)を守ってくれて、ありがとう。お父さん。」

『ハイキュー』若利父と若利君の会話です。