幕末において、最もぶっ飛んでいた人物は吉田松陰ではないでしょうか。
松陰は、単身ペリーの船に乗り込み、「アメリカに連れて行ってくれ。」と懇願します。
松陰は、日本が異国と対抗するためには、異国の技術を取り入れるしかないと決断しました。
当時日本人が海外渡航することは固く禁じられていました。
その後、松陰は投獄されます。投獄生活後恩赦により自宅に戻ることができ、松下村塾を開きます。
1年強、松陰は高杉晋作・久坂玄端・桂小五郎・伊藤博文・山形有朋らと学んでいきます。
その時、幕府は天皇の許しなく、勝手に日本に不利な日米修好通商条約を結んでしまいます。
松陰は、絶望します。このまま、幕府に任せていては、日本は異国に支配されてしまうと危機感を抱きます。
そして、当時の老中の暗殺計画を画策します。高杉・桂らも時期尚早と必死で松陰を止めますが、松陰は止まりませんでした。
この思想が幕府から危険視され、松陰は捕らわれの身になります。
幕府からの聴取にも、松陰は「国のために暗殺計画を立てた。」と素直に答えます。
これが決定打となり、松陰は処刑されます。安政の大獄です。
最後まで、己の信念を貫き、ぶっ飛んでいた松陰の意思は日本の未来の種となります。
ある者は身分の関係ない兵隊集団奇兵隊を作り、ある者は長州を尊王攘夷で固め、ある者は維新三傑と称される働きをし、ある者は初代内閣総理大臣となり、ある者がは陸軍の祖となり日露戦争勝利に貢献しました。
ペリーが記した記録が現在もアメリカに残っています。そこに松陰のことが書かれていました。
「命を顧みず、知識を得ようとした教養ある日本人がいた。このような若者がいるこの国の未来は何と希望に満ち溢れているだろうか。」
30歳という短い人生を駆け抜けた吉田松陰が幕末維新の原点と言えるのではないでしょうか。