「春は夜桜。夏には星。秋には満月。冬には雪。それで十分酒は美味い。それでも不味いんなら、それは自分自身の何かが病んでいる証拠だ。」
『るろうに剣心』比古清十郎の言葉です。

二十四節季において、2月3日~2月18日までを「立春(りっしゅん)」と呼びます。
暦の上での春の始まりであり、二十四節季における最初の季節となります。
「立春」は、季節を分けるという意味を持つ「節分」の翌日にあたります。
♦2025年の節分は、2月2日であった
「節分」といえば、「2月3日」だと思いませんか?
実は、2025年の「節分」は昨日、2月2日でした。
「節分」の日は「2月3日」になる事が殆どですが、地球の公転周期と暦のズレを補正する為、稀に「2月3日」でない日になる事があります。
♦2021年、124年振りに「節分」の日が2月2日になる
♦2025年、4年振りに「節分」の日が2月2日になる
124年振りとなる2021年と比較し、少々年数に重みがありませんが、2021年以降は4年ごとに、「節分」が「2月2日」になる年が訪れるようです。
つまり、2029年の「節分」の日も、2月2日となります。
「節分」:「1年間健康に過ごせるように」という願いを込めて「悪いもの」を追い出す行事
「邪気払い」として、豆まきをしたり、恵方巻を食べたりします。
「節分」の発祥は、中国です。
平安時代に、中国から伝わってきた文化が、日本古来の価値観と重なり、現在の「節分」が生まれてきたとされています。
元々「節分」とは、年に4回訪れる「立春」「立夏」「立秋」「立冬」の前日を、指す言葉でした。
これが、いつの日からか、1年の始まりであり、最も大切にされていた「立春」の前日のみを「節分」と呼ぶようになりました。
私は、子どもの頃より、2月である「節分」の日に「何故、1年間健康にと言うように、何故1年間と言うのか」が不思議でした。
これは、季節を二十四節季で考えていた為であるという解を、現在になり得る事が出来ました。
「節分」と言えば「豆まき」です。
「鬼は外、福は内。」
昔々の日本では、病気・災害等、悪いものは、全て「鬼」の仕業であると考えられていました。
その為「節分」において、鬼を退治する効果があるとされる豆を投げる風習が、拡がりました。
「なぜ自分が人よりも強く生まれたのか、わかりますか?」
「弱き人を助けるためです。生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者は、その力を世のため人のために使わねばなりません。天から賜りし力で人を傷つけること、私腹を肥やすことは許されません。弱き人を助けることは、強く生まれた者の責務です。責任を持って果たさなければならない使命なのです。決して忘れることのなきように。」

「私は、もう長く生きられません。強く優しい子の母になれて幸せでした。あとは頼みます。」
「母上、俺の方こそ、貴方のような人に生んでもらって光栄だった。」
『鬼滅の刃』煉獄母の言葉と、煉獄の言葉です。
私自身、幾重にも表現してきたように、私には、上記の母の言葉は「呪い」のように感じてしまいます。
『鬼滅の刃』を経た現在の私達日本人は、鬼は外にいる存在ではなく、私達自身の中にいる存在であると、学んでいるはずです。
そして、鬼には、悪い一面だけではない事も。
仏教において「鬼」は、煩悩・欲望を強く持つ人の心に住み着き、災いの元となる存在と考えられてきました。
この影響もあり「鬼が住む煩悩や欲望を追い払う」という事に繋がり「節分」の豆まきが、日本中に浸透していきました。
しかし、現在においては、煩悩・欲望等を隠している方が、リスクである事が、明るみになってきています。
中居君問題然り、アイドルの熱愛報道然り、煩悩・欲望等をない存在であると世の中に観測されている人の、煩悩・欲望が明るみに出た時、その人は世の中から消えてしまいます。
古くは、ベッキーや渡部等がそうでした。
煩悩・欲望がない人等、いない。
♦自分に甘く他者に厳しい多くの人 × 煩悩・欲望とは真逆の存在の煩悩・欲望が明るみになった時
炎上や社会から人が消える事に対する、方程式です。
逆を言えば、煩悩・欲望がある人であると、世の中に観測されている人の方が、多少の煩悩・欲望は明るみに出ても、ダメージは少なくなります。

「鬼は外」は、現代には合わないかもしれません。
あなたの中にいる鬼と上手く共存していく事が、現代を生きる上での、鍵であると、私は感じています。

鬼になったとしても、煉獄に生きて欲しかったと願ったのは、私だけではないはずです。