「ざっざっざっ」
「お前は多分じいさんになるくらいまで幸せになれない。」
「何?イキナリ何の呪いなのさ?」
「たとえばどんな大会で勝っても、完璧な満足なんてできずに、一生バレーを追っかけて生きていく、めんどくせえ奴だからな。」
「こんな時でも悪口挟むね。」
「でも迷わず進めよ。お前は俺の自慢の相棒で、ちょうスゲェセッターだ。この先チームが変わっても、それは変わんねえ。でも戦う時は倒す。」
「‥望むところだね。」
『ハイキュー』岩泉と及川の試合敗退後の帰り道での会話です。
私は、この会話の冒頭の2人が無言で、それぞれが相手の事等気にしないその時の感情のままの表情で歩いているシーンが大好きです。
小学校高学年位になると、相手との距離感を意識し始めます。
その為、自然にほとんどの時間を気の合う友人とのみ過ごすようになっていきます。
私は、友人でも、恋人でも、家族でも、誰であれ、会話がなくても不自然に感じない人との関係性が好きでした。それは、現在も変わりありません。
逆説的ではありますが、会話がなくても不自然に感じない人とは、5時間でも6時間でも、何もせずにずっと一緒にいる事が出来ます。
友人や恋人との過去を思い出すと、いつも何を話したかではなく、何も話していない時の横顔や日が沈み少しずつ表情を読み取る事が出来なくなっていく瞬間等、言葉ではない部分を思い出します。
人が、誰かとコミュニケーションを取る時、そのほとんどは言語情報ではない部分から、相手の情報を読み取っています。
視覚情報が55%、聴覚情報が38%、言語情報が7%というよう定義されているメラビアンの法則に代表するように、人は相手の情報のほとんどを言語ではない部分により読み取っています。
それにも関わらず、無表情であったり、声のトーンや速さが常に一定であったりする等、非言語情報に気を遣っている人が、ほとんどいない事はもったいない事であると感じます。
何を話すか以上に、どのような表情で話すか、どのような声のトーンで話すか、どのような抑揚をつけて話すか等の方が重要です。
その人が何を話したかは覚えていない事がほとんどですが、その人が良い印象だったか、悪い印象であったかは、多くの人が覚えています。
その印象は、言語コミュニケーションではなく、非言語コミュニケーションから生じている事がほとんどです。
言語コミュニケーションとともに、非言語コミュニケーションにも意識を向ける事で、あなたの印象は大きく変化します。