桜舞い散る あの川の ほとりへ行こう 大和の国で 君が待っているから

 

 …キラキラ光る 溢れる涙を 僕は流したよ この海に 君に届くかな 届くといいな 風が優しくて 嬉しいな…

 …桜舞い散る あの川の ほとりへ行こう 大和の国で 君が待っているから…

 長渕剛『YAMATO』の歌詞です。

 

 

 

 大和魂とは、仏教・儒教等が入ってくる以前からの、日本人本来の物の見方・精神・考え方を言います。

 そして「大和」とは、奈良を意味し、日本人本来の物の見方・精神・考え方とは「藤原京」「平城京」を中心とした奈良の都に住んでいた人達が作り上げたものと表現する事も出来ます。

 

 

 紀元前5世紀、現在のインドで釈迦によって創始された仏教。

 紀元前後頃には、前漢時代の中国に伝わります。

 4世紀後半から6世紀初めに掛けて朝鮮半島の高句麗(こうくり)から百済(くだら)新羅(しらぎ)を経由し、6世紀中頃に日本に伝わったとされています。

 

 『日本書紀』には、552年に百済の聖名王から欽明天皇に、仏像と経典が贈られたと記されています。

 仏教伝来の背景には、当時、百済が新羅と激しい戦いの最中にあり、日本に援軍を要請した事が挙げられます。

 その見返りとして、百済は、日本に仏教を伝えたとされています。

 

 

 

 仏教伝来は、日本の在り方そのものを揺さぶる大きな出来事であり、歴史的転換を引き起こすきっかけともなりました。

 その最たるものが、仏教を信仰するか否かの「崇仏論争」です。

 当時、政局を二分していた「蘇我氏」と「物部氏」の間で、熾烈な論争が巻き起こった事が『日本書紀』にも記されています。

 

 欽明天皇は「こんな素晴らしい教えは聞いた事がない」と喜び、日本において、仏教を受け入れるかどうかを群臣に尋ねました。

 大臣の蘇我稲目(そがのいなめ)は「諸外国は、皆礼拝しているのに、日本だけが背く事がありましょうか」と肯定します。

 しかし、大連の物部尾興(もののべおこし)は「外国の神を礼拝すれば、国神の怒りを招くでしょう」と反対します。

 

 

 新しい考えを取り入れて変化をしていくのか?これまで通りの考え方のままいき変化をしないのか?

 21世紀の現代でも行われている論争が、6世紀から日本で起こっていたのです。

 

 

 

 どちらかに決めかねた天皇は、蘇我稲目に仏像を預けて、試しに礼拝をさせてみる事にしました。

 そこで、稲目は、大和の国の向原(むくはら)の家を清めて、仏像を安置して、寺としました。

 この向原の寺は、日本仏教伝来における最初の寺とされています。

 

 ところが、その後、疫病が大流行し、多くの死者が出ました。

 物部尾興は、このような事態になったのは、仏像を祭ったせいであると批判し、向原の寺を焼き払ってしまいます。

 

 

 代は変わり、皆さんも聞いた事があろう、稲目の息子・蘇我馬子(そがのうまこ)は、自身が病に倒れ、再び疫病が都中で蔓延した為、再び仏教の力に頼りたいと天皇に訴えます。

 仏教の信仰中止を訴える尾興の息子・物部守屋(もののべもりや)も、病に倒れてしまいます。

 そこで、天皇は、馬子1人だけに仏教を認めます。

 

 

 

 その後、蘇我氏の血縁である用明天皇が即位しますが、蘇我氏と物部氏の対立は、ますます激化していきます。

 用明天皇が崩御すると、馬子は、後継者として、甥である泊瀬部皇(はつせべのみこ)を推し、守屋が擁立した穴穂部皇子(あなほべのみこ)らを討ち滅ぼします。

 そして、587年「丁未の乱」を起こした馬子は、厩戸皇子(後の聖徳太子)とともに戦い、物部一族を滅ぼします。

 

 

 仏教の流布を誓願して戦った馬子は、勝利した翌年、日本最古の本格的な寺院である「飛鳥寺」の造営を開始します。

 歴史上の悪役とされる蘇我一族。

 仏教が、日本に受容された背景には、蘇我氏の長年に渡る尽力があったのです。

 

 

 そして、歴史を学ぶと、変化を避ける人ではなく、変化を受け入れる人が生き残ってきた事を、知る事が出来ます。