発見の真の航海は、新しい風景を探すことではなく、新しい目を持つことであるin広島

 

 

 『SLUM DUNK』『あひるの空』

 偶然か必然か、バスケットボールを代表する両作品のインターハイの舞台は、ともに広島です。

 

北野(SLAM DUNK)の徹底解説・考察まとめ (2/3) - RENOTE [リノート]

 

 

 安西先生が豊玉の元監督・北野とともに、食事後歩くシーンも、広島の「路面電車」の線路の景色です。

 また、中後地方最大の夜の街である「流川(ながれかわ)通り」も、広島駅から1,5㎞程離れた場所にあります。

 この影響もあってか、豊玉の選手は「流川(るかわ)」の事を「流川(ながれかわ)」と呼んでいます。

 

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 広島に行ってきました。

 広島は、大学生の時に「原爆ドーム」にて、被爆者の話を聞いた時以来、2度目の訪問でした。

 

  ♦人口120万人

 広島県の人口は、47都道府県の中で、12位であり、中国・四国地方最大の都市です。

 

 広島と聞き、何を思い浮かべるでしょうか?

 

  ★原爆ドーム

  ☆厳島神社

  ★もみじ饅頭

 

 世界遺産に登録されている「厳島神社」瀬戸の「他島美」緑豊かな中国山地等、広島県には、様々な姿があります。

 

 

  ①檸檬(れもん)生産量

  ②牡蠣(かき)生産量

  ③お好み焼き店店舗数

 

 いずれも、広島県の日本一です。

 

 

 ①檸檬の生産量は、2326tであり、日本全体の42%のシェアで、日本一です。

 瀬戸内海に浮かぶ生口島は広島県内でも1番の生産地で「レモンの島」として知られているほか、呉市、尾道市、大﨑上島町でも生産が盛んです。

 凪良ゆう著『汝、星の如く』においても、瀬戸内海の島が舞台であり、檸檬が度々登場していました。

 

 

 ②牡蠣の2019年の生産量は、99,144tであり、日本全体の61%のシェアで、日本一です。

 2位の宮城県の4倍以上の生産量であり、広島県産の牡蠣は大粒で濃厚な甘みが特徴です。

 鍋・フライ・グラタン等、様々な料理で、牡蠣を堪能する事が出来る事も、広島の特徴です。

 

 

 ③人口10,000人当たりの、お好み焼き店の店舗数が5.9店で日本一です。

 広島県の地元グルメといえばお好み焼き。

 広島県内には、1,900店舗のお好み焼き店があり、人口当たりのお店は大阪より多いということで驚きです。

 その影響か、ソース消費量も、日本一です。

 

 

 

 そして、私の中での広島の驚きは「路面電車」です。

 

  ☆車両数

  ★乗客者数

  ☆路線の長さ

 

 路面電車の様々な指標で、日本一を誇っています。

 日本のどこに行っても、電車を見ると「東京に比べると…」といつも感じてしまいますが、広島の路面電車「広電」においては、東京の路面電車を上回っていました。

 電車において、東京を上回っていると感じた経験は、初めてでした。

 

広島県広島市】日本一の路面電車の街“広島” ~利便性を高めて ...

 

 

 広島城の城郭は「廃藩置県」後も放置されていました。

 その為、城掘には、汚水が停滞していました。

 人口増加による新市街地建設や城堀の水質汚染を解決する為、広島市は、広島城の外堀と西塔川の埋め立てを決定します。

 

 これを契機に、広島市内に「路面電車」を敷設する計画が、スタートします。

 この時、鉄道敷設の許可を得たのが「広島電機軌道株式会社(現在の広島電鉄株式会社)」です。

 「広電」は、当初専用軌道の予定でしたが、広島市議会の要望により、道路の中央に軌道を敷設する「併用軌道」に決定します。

 この決定が、後の「広電」に苦境と栄光をもたらす事になるとは、当時の広島市議会の人も、想像していなかった事でしょう。

 

 

  1911年(明治44年):敷設工事を開始

  1912年(大正元年) :操業を開始

 

 驚くべき事に「広電」の歴史は、2025年において113年にもなるのです。

 では「広電」が、どのように、113年もの間、太平洋戦争・マイカーの普及・コロナウイルス感染拡大の危機等を、乗り越えてきたのか見ていきましょう。

 

 

 「路面電車」日本一の長さを誇る「広電」は、広島市内に留まらず、世界遺産厳島神社を擁する「宮島」のフェリー乗り場まで行く事が出来ます。

 しかも、山陽線よりもフェリー乗り場の目の前が駅の為、時間に余裕のある方は、広島駅から「広電」を利用し「宮島」のフェリー乗り場まで行く事も、お勧めです。

 

 「広電」の市内路線は、すんなりと軌道敷設の許可が下りました。

 しかし「宮島線」は、中々許可が下りません。

 

 観光という高い需要が見込める為「広島電鉄」は早い段階から「宮島線」を計画するものの、中々許可が下りません。

 

  ♦山陽本線と軌道が並行する事

 

 これが理由となり、申請をするも、不許可という結果を繰り返す時期が、数年間繰り返されます。

 

 

  1919年(大正8年):宮島口の鉄道敷設許可が下りる

  1931年(昭和6年):宮島線が全線開通

 

 昭和に入ると、広島市内の工業化が進み、工業地帯へ通勤する工員の足として「広電」の需要が、爆発的に増えていきます。

 「広電」の最盛期とも表現出来る時代でした。

 

 

 そして、広島は、運命の日を迎えます。

 

  1945年(昭和20年)8月6日

 

 

 この続きは、また後程。