…私のもっとも隠したがっていた部分を故意に露出する型の作家であったためかもしれない…
三島由紀夫『私の遍歴』の一説です。
誰もが、隠したいと思っている自分の一部分があります。
太宰は、それを、隠す事なく、思い切り書いてしまいます。
★弱い者は、自分の弱さを隠す
☆強い者は、自分の弱さを隠さない
上記のように考えると、太宰は、弱い人ではなく、強い人であるとも、捉える事が出来ます。
…私は自分に零落を感じ、敗者を意識する時、必ずヴェルレエヌの泣きべその顔を思い出し、救われるのが常である…
…生きて行こうと思うのである。あの人の弱さが、かえって私に生きて行こうという希望を与える…
…気弱い内省の窮極からでなければ、真に崇厳な光明は発し得ないと私は頑固に信じている…
太宰治『服装に就いて』の一説です。
ヴェルレエヌは、フランスの詩人で、この人の私生活も、太宰同様、他者から見ると散々なものです。
結婚しているにも関わらず、美少年を好きになり同棲してしまい、別れ話からその美少年を銃で撃ち投獄され、無一文となる‥。そんなヴェルレエヌが、太宰は大好きでした。
太宰が記したように、太宰を求める人達の心にも「太宰の弱さが、かえって私に生きて行こうという希望を与える」という所があるのではないでしょうか?
…落語は、英雄譚じゃない。見栄っ張り、呑気や助平に、お調子者…
…完璧に成れない普通の人間の失敗を語る芸。それ故に、弱さもまた武器に成り得る…
…弱くてもいい。それもまた、人としての味だ…
『あかね噺』阿良川志ぐまの脳内言葉です。
落語に出てくる人物は、駄目な人ばかりです。
お酒で人生を壊したり、恋愛で死にかけたり、借金が返せなかったりと‥それでも笑う事が出来るのは、中学生が友達の事を「お前。アホやな」と笑うように、共感するからです。
自分にも、そのような駄目な所があるから、共感出来、笑うのです。
太宰の文学も、そのような共感を、読者に呼び起こします。
共感出来ると、人は、救われます。
少しだけ、生きていこうと‥。
それは少しかもしれませんが、その少しで、救われるのです。
否、救いは、少しでいいのです。
…落語家になって、いろんな人に出会って、強い気持ちをぶつけられて、思ったんでしょ?おっ父と違うって。おっ父の仁と向き合って、分かっちゃったんでしょ?…
…落語家・阿良川志ん太は、弱い人だった…
「ねぇ噺は、ともだちなんだよね?弱い人は、ともだちになれないの?落語家って強くなきゃいけないの?」
…今まで、おっ父の芸はスゴいって、憧れて追いかけて、その所為で見えなくなってた。おっ父の芸の本質。おっ父は、あの人達みたいに強くない…
…だからこそ、おっ父の語る人は、あたたかくて、やさしい。そうだ。私はーおっ父の弱さが好きだったんだ…
『あかね噺』あかねの自分との会話です。
太宰は、あまり本を持たない作家でした。
しかし、落語家の三遊亭円朝の全集だけは、ずっと持っていました。
落語にある絶望に根差した笑いが、偶然か必然か、太宰作品にも、含まれています。
…気弱い内省の窮極からでなければ、真に崇厳な光明は成し得ないと、私は頑固に信じている…
その一方、太宰は、上記のような背筋が伸びるような創作への覚悟も、記しています。
「弱さの中の強さ」のような表現がされ、私はその表現に納得出来る部分がある半面、納得出来ない部分もあります。
「弱さの中の強さ」と表現してしまうと、結局、強い事が正義のようになってしまいます。
太宰から、真に学べる事は、そうではないと思います。
「弱さ」には、弱いからこその価値があり、弱いからこその魅力がある。
つまり、弱いからこそ、そこから光が発するのです。
弱いからこそ、気付ける事は、多々あります。
弱いからこそ、人の感情に敏感となり、弱いからこそ、人の感情に寄り添う事が出来るのです。