「戦いでは、強い者が勝つ。辛抱の強いものが。」
徳川家康の言葉です。
後世、家康は「たぬきおやじ」と言われていますが、日本史を振り返っても、家康程、義理堅い人物はいません。
家康は、少年の頃から隣国である尾張の信長との関係が深く、最初は信長にいじめられ、次は利用され、終には引き立てられました。
とはいえ、家康は、信長の家臣ではありません。
家康と信長の関係は、同盟者であり、本来対等な関係です。
しかし、同盟に対等等あるわけがなく、信長が上、家康が下であるという主従がはっきりした同盟でありました。ただ、家康の不思議な所はこの関係を一度も覆す事がないのはもちろん、疑問すら抱いていなかった事です。
その為か、信長は家康を弟のように愛しました。
否、弟よりも、愛しました。
しかし、この関係を紐解くと信長が愛したというよりも、家康が信長に愛されるような言動を重ねたという方が正確かもしれません。
信長という能動的な天才と仲間になる為には、同じ能動精神を発揮しては上手くいきません。
信長と上手くやっていく為に、家康は受け身に徹底しました。
信長に対する家康の態度は、極めて女性的で、包み込むようなものでした。
武田信玄が甲斐の軍勢を率いて京を目指す中、家康は部下の反対を押し切り、信長の利害の為に、適わない事は承知で武田軍と戦い、大敗します。
少々の優秀さを持つ人であれば、ここで強者の信玄につきます。
つかぬまでも、多少の動揺はみせるはずですが、家康は愚直なまでに律儀でした。
世間一般で言う律儀ではなく、この命を懸けた律儀さこそが後の家康の生涯を決定させました。
普段は女性的な態度を示す家康が、ここ一番では誰よりも男性的な律儀さを示した事で信長は家康を心から信頼し、他の武将達も家康に一目を置くようになりました。
この家康の人間像「家康こそ運命を託して信ずるに値する」と思わせた事で、後の関ケ原の戦いで豊臣恩顧の武将が豊臣側ではなく、徳川側についた最も大きな理由となります。
戦国社会において、己の律儀を守る事は、奇跡に近い努力を要します。
家康は、信長や秀吉のような天才ではありませんが、律儀さこそが家康の才能です。
家康に天下を取らせたのは、この才能によるものと言えます。
その家康が、律義さを捨てたのは、彼が70歳になってからでした。
大阪の陣の時の家康は、74歳です。
家康は、自分の死が70年築き上げた徳川事業の崩壊となる事を知っていたのです。
家康が老いていく一方、秀頼は少年から青年へと成長していました。
徳川家に仕えている豊臣家の旧臣の中で、家康が死ねば、秀頼を立てようと考えている者は、少なくありませんでした。
家康は、焦ります。
気の長い男が、短気な老人に一変し、律義者が陰謀家に化けたのが、家康の最期の数年間です。
人生の残りわずかな持ち時間と競争するように、家康は70年持ち続けた自身の律義さを捨てなければなりませんでした。
この最期の数年間のみを切り取り、家康は後世「たぬきおやじ」と評されています。
私は、家康の死に物狂いな姿にこそ、奇跡的な律義者である家康から初めて人間らしさを感じ、親しみを覚えます。