「よく勉強してるな。」
…志ん太兄さん、違うんです。それしか出来ないんです…
…親の都合で転校が多くて、どうせ転校するし‥って、人付き合いが億劫で、本や勉強に逃げてきました…
…だから、大学にも居場所はなかった。僕より賢くて、何でも出来る人を目の当たりにして、惨めで情けなくて…
「お!!いい本読んでるね。知ってる?その本、落語がモデルなんだぜ。」
…あの時、落語と出会わなかったら、どうなっていたか…
…大学を辞めて、落語家になった今でも、人付き合いは苦手で、一回り下の妹弟子に心配されて、悩む弟弟子に声も掛けられず、外付けの自信に縋っています…
…変わりたくても、人はそう簡単に変われない。ならせめて、胸を張って言いたい。積み重ねた知識が、僕の武器だと…
『あかね噺』阿良川こぐまの回想です。
世の中には、素晴らしい名言や、素敵な言葉が、たくさんあります。
時には、感動したりする事もあるでしょう。
しかし、多くの場合、そのまま聞き流してしまったり、感動したような気がしてもその時だけの気持ちだったりという事が多いものです。
ただ、自分が何か痛切な体験をした時に、ふと、その言葉が蘇ってきたりする事があります。
そうすると、その時に初めて、その言葉が、本当の意味で痛切な言葉として身に染みるという事があります。
…言葉が痛切な実感となるのは、痛切な体験のなかでだ…
川端康成『虹いくたび』の一説です。
川端の言葉通り、様々な体験をするからこそ、その言葉が痛切なものになっていくという経験は、誰もがあるのではないでしょうか?
ただ、痛切な体験をしてから、言葉を探すのでは、遅いです。
先に言葉を知っていて、体験をした時に、その言葉を思い出し、痛切に感じる。
これにより、その体験が、あなたにしかない物語になっていきます。
その為には、日頃から、様々な言葉に触れておく事が、大切です。
痛切な体験をした時に、それに対応する言葉がないよりは「ああ、この体験を現す言葉はこの言葉だ。」というように、体験を支える言葉がある方が、人生はずっと豊かになります。
「わあああああ、やめろやめろやめろ。俺から取り立てるな。何も与えなかったくせに、取り立てやがるのか。許さねえ。許さねえ。元に戻せ俺の妹を。でなけりゃ神も仏も、みんな殺してやる。」
「誰も助けちゃくれない。いつものことだ。いつも通りの俺たちの日常。いつだって助けてくれる人間は、いなかった。雪が降り始めた。どんな時だって、全てが俺たちに対して容赦をしなかった。どうしてだ?禍福は糾える縄の如しだろ?いいことも悪いことも、かわるがわる来いよ。」
『鬼滅の刃』上弦の陸の鬼・妓夫太郎が妹・梅を失いそうになった時の言葉です。
『鬼滅の刃-遊郭編』において、誰もが鬼側に感情移入した要因には、鬼側の過去による部分が大きいですが、それとともに「禍福は糾える縄の如し」という言葉を使っていた事も大きいと思います。
言葉がある事で、直接的に何か解決する事はないかもしれませんが、心の持ち様として、言葉があるかないかでは、すごく違うという事が、私の持論です。
…いかに人生を厭離(えんり)するとも、自殺はさとりの姿ではない…
…いかに徳行(とっこう)高くとも、自殺者は大聖(たいせい)の域に遠い…
川端康成『末期の眼』の一説です。
こういう事を言っておきながら、川端は、自殺をします。
自殺の理由については、様々推測されていますが、本当の所は本人にしか、否、本人にもわからないのではないでしょうか?
「自殺しそう」という事はわかっても「何故自殺したのか」は、誰にもわかりません。
若しかしたら、川端自身も、自分が自殺した事自体、意外だったのではないかと、私は考えています。
人には、そういう一面があります。
☆自分でも思いがけない事をしてしまう
★自分はそんな事しないと思っていたのに、してしまう
自分に対しても、他人に対しても「こういう事をして、こういう事はしない」と考え、多くの人は人生を送っています。
しかし、本当に、ずっとその範囲内だけで生きているのかというと、存外、そうもいかず、時にはみ出してしまう事もあるのではないでしょうか?
面白いのは「私は、どんな事があっても、こういう事はしない」と言っている人程、その言葉と行動が一致しない事が多い事です。
たとえば「どんな時でも、○○さんを裏切らない」等と言っている人程、極限状態になると、否、数年の時間が経過するだけで、簡単に裏切ったりします。
これに対し「自分はいざとなったら、〇〇さんを裏切るような事をしてしまうかもしれない」と言っている人の方が、裏切らなかったりします。
どんな時にも「自分は、間違っている可能性がある」という意識を持つ事で、謙虚になる事が出来るものです。
私が、川端に感じる魅力は「一貫性のなさ」です。
「一貫性のなさ」というと、ネガティブな事のように、聞こえるかもしれません。
人は、自分の一貫性を保とうとします。
「自分は、こういう人間だ」と思おうと、意識的にも、無意識的にも、そういう人間になろうとします。
前に言った事と、後で言った事が、違わないように、矛盾しないように、気をつけます。
ただ、川端の言葉に触れると「前に言った事と、後で言った事に、違いがあってもいいのではないか?」と言われるような気がしてきます。
感情が揺れ動くからこそ、言葉が生まれるという意味合いもあると思います。
本来、人とは、かなり一貫性のない、ふらふらしたものではないでしょうか?
昨日は優しかったのに、今日は機嫌が悪いという事の方が、本来の人の姿です。
勿論、対外的にそのような姿を見せないようにするべきですし、上機嫌でいる事は大人のルールです。
それでも、昨日好きだった事も、今日には嫌いになっているという一貫性のない姿こそが、本来の人の姿だと思います。
このような一貫性のないゆらゆらした存在が人であるという理解の下、自分や他人を見ていくと、救われる部分があります。
3歳で両親が亡くなり、祖母も7歳で亡くなり、姉も10歳で亡くなり、最後の肉親の祖父も16歳で亡くなり、他者の目を伺う中でしか生きる事が出来なかった川端。
そんな川端だからこそ、自分に対しても、他者に対しても、人以上に観察する事が求められ、実践し続けたからこそ、人を一貫性のないゆらゆらしたものである捉える事が出来たのかもしれません。