「いいたいことは、それだけか。どう時代が揺れ動こうと、我々の真実は何一つ変わることはない。」
「悪は直ちに断つ。すなわち、悪・即・斬。それが俺たち新選組だ。」

『るろうに剣心』斎藤一の言葉です。
♦謎多き男・斎藤一の写真が見つかる
…沖田総司・土方歳三・近藤勇…
現在でも歴史上の人物の人気アンケートをすると、1位となるのは、土方歳三です。
推しのいる剣客集団は、歴史上「新選組」しか存在しないでしょう。
その中でも『るろうに剣心』の影響もあり、密かな人気を集めているのが、新撰組三番隊隊長・斎藤一です。
坂本龍馬暗殺の首謀者と疑われたり、実は新撰組に潜伏していたのではないか等、新撰組の隊士の中でも、最も謎に包まれた男の真相が近年明らかになってきました。
斉藤一の写真が、見つかったのです。

高齢になってからの写真にも関わらず、凛々しいその顔からは、若き日には相当のイケメンだったのではないかと想像が湧きます。
1844年に生まれ、1915年に没する。
新撰組の中で、最も死地を経験した男は、新撰組の中で、永倉新八とともに、最も長く生きた男になりました。
♦斎藤一と新撰組
斉藤は、10歳頃より、近藤・土方・沖田らが剣術を学んでいた試衛館に出入りするようになります。
1863年:文京区にある伝通院より「浪士組」が結成され、京都の治安維持の為、京都に出発する
「浪士組」が内部分裂・解散をし「新選組」が結成されます。
実は、伝通院を出発した時の名簿に、斎藤一の名前はありません。
斉藤は、1862年旗本と揉め、旗本を殺してしまい、逃げるように江戸を後にし、京都で生活していたのです。
偶然か必然か、そんな斎藤のいる京都において、幼き日より共に汗を流してきた近藤・土方・沖田らと再会します。
ここで、斎藤は「新選組」に加入します。
ここからの「新選組」の活躍は承知の通りであり、斎藤は、自慢の剣を振るうだけではなく、潜伏・暗殺等「新選組」の裏の顔を全うする役割もこなしてきました。
「犬はエサで飼える。人は金で飼える。だが、壬生の狼を飼うことは何人にも出来ん。」

『るろうに剣心』斎藤一の言葉です。
♦近藤・土方無き新撰組を支える
時代の流れとは、時に残酷なもの。
京都の治安維持の為に働き、池田屋事件においては京都大火を事前に防ぎ、何千人もの京都の人々の命を救った「新選組」はいつの間にか、政敵とされてしまいます。

★近藤→処刑
☆沖田→病死
★土方→北海道に渡り、独立国家を作る
幼き頃から、共に汗を流し「新選組」の根幹を支えてきた戦友が、次々にいなくなる中、斎藤は「新選組」として、新政府軍と戦い続けます。
★会津藩:武士としてすべき事をやる藩。利では動かない
☆新撰組:治安維持の為、指示された人を斬る集団。そこに個人の意思はない
幸か不幸か「会津藩と新撰組」の世界観は、一致していました。
否、後年の土方には、後の世の事まで考える大局観が伺えますが、斎藤には、そのような大局観は伺えません。
敗戦を繰り返し、隊士も次々に抜けていく中、斎藤は「新選組隊長」として、戦い続けます。
…ひとたび会津に来りたれば、今落城せんとするを見て、志を捨て去る誠、義にあらず…
斉藤の手記です。
「惨めだな。戦わずして志々雄に負けた時、お前は剣を捨てるべきだった。己の信念を貫けなかった男など、死んでも生きていても惨めなものだ」

『るろうに剣心』斎藤一の言葉です。
敗戦を繰り返した「新選組」は、隊士が13人までに減少してしまいます。
斉藤率いる13人の「新選組」は、如来堂にて「新政府軍」300人に囲まれてしまいます。
ここで「新選組」は、壊滅します。
斉藤は、行方知れずになります。
斉藤1人であれば、逃げる事は、容易です。
しかし、斎藤は、数日後、傷を負いながらも、会津藩に合流し、落城寸前の城を守る為「新政府軍」と戦い続けます。
会津藩が降伏し、斎藤の戊辰戦争は、終わりを迎えます。
♦最後まで、守る為に、剣を振るい続けた男
明治2年会津藩は、会津28万石から斗南3万石に、治める国の規模を減らされます。
しかも、斗南は、現在の青森県にある、本州最北端の極寒の地です。
17,000人の藩士とその家族が、斗南に渡ります。
斉藤も、そこに加わります。
極寒と日々の食事に欠く過酷な状況で、斗南に渡り、半年間の間に2,000人以上が病気を罹患します。
そのような中、斎藤は、藤田五郎と名を改め、結婚をします。
妻の時尾は、現在戊辰戦争の会津の戦いと描く時に参考にされている籠城の手記を描いた聡明な女性でした。
結婚の仲人には、元会津藩主・松平容保が勤めました。
その後、斎藤は、東京に居を構え、警察に就職をします。
『るろうに剣心』で描かれている齋藤は、この頃の斎藤です。
明治10年齋藤は、新政府軍として西南戦争に参加します。
会津藩士にとっては、戊辰戦争の雪辱を果たす舞台です。
しかし、斎藤からは、そのような個人の思いは、伝わってきません。
斉藤にあるのは、ただ自分の能力を発揮したいという気持ちだったかのように、思います。
斉藤の人生は、不器用なばかりに、職務に忠実なものです。
警察を引退してからも、師範学校等の守衛として働きます。
最後まで、人を守る事を自分の使命と考えていた事が、伺い知れます。
また、剣道の大会に出場し続けていた事からも、自分の能力を発揮する事を求め続けていた事も、伺い知れます。
人を殺す為ではなく、社会の秩序を守る為に剣を振るう
ただの人斬り集団とされてきた「新選組」に対する評価も、近年変化してきています。
斉藤が記した履歴書には「福島県士族旧会津藩」という肩書が残されています。
ただ、職務に忠実な男。
現代には合わない世界観だからこそ、斎藤の生き様から、学ぶ事は多いと思います。
斉藤は、没する直前に起き上がり、正座をします。
そして、正座をしたまま没します。
…私が死んだら、会津の阿弥陀寺に寺を建ててほしい…
斉藤の遺言です。