「人は、可能性を消費して何者かになる。故に、夢見る間は、誰でも大口をたたくものです。」
「今回の敗北は、確かに予想通りでしたが、彼に今もっとも必要なものを与えてくれます。」
「挫折を。転んだことのない人間に、現実など見えはしませんよ。」
![ジャンケットバンク(漫画)のネタバレ解説・考察まとめ (9/9) - RENOTE [リノート]](https://renote.net/files/blobs/proxy/eyJfcmFpbHMiOnsiZGF0YSI6ODY0MzM1NiwicHVyIjoiYmxvYl9pZCJ9fQ==--1038d259b25b232eed76aff18c7fb1e7caa45ce6/%E6%BA%96%E5%82%99%E4%B8%8D%E8%B6%B32.jpg)
『ジャンケットバンク』宇佐美の言葉です。
♦日本一の茶所を開墾したのは、戊辰戦争で敗者となった徳川家に忠誠を誓う武士達であった
静岡県の中央に位置する牧之原市。
合併がされたものの、人口4万人の小さな街です。
ここに、日本一の茶産地があります。
ただ、牧之原で茶園開発が始まったのは、明治以降の話です。
明治以前は、現在の茶園がある場所は、地元の農民も寄り付かない原生林でした。
戊辰戦争に敗北した徳川家は、新政府軍の命により、700万石あった領国を、70万石に減らされてしまいます。
領国を減らされるだけでなく、徳川家は、江戸・現在の東京から、駿府・現在の静岡に領国を変える事も、命じられます。
ここで、徳川家に仕えてきた武士やその家族達に、選択が迫られました。
①新政府に仕える
②農業や商業を始める
③徳川家とともに、静岡に移住をする
あなたなら、どの選択をしますか?
…ルフィ‥辛いだろうな‥エースの最期の行動を聞いて驚いた‥それじゃまるで、ロジャー船長だ。おれは船長に、時には逃げて欲しかったし、泣いて欲しかった…
…いいかルフィ、勝利も敗北も知り、逃げ回って、涙を流して、男は、一人前になる…
…泣いたっていいんだ‥!!乗り越えろ!!!…

『ONEPIECE』シャンクスの言葉です。
♦勝利も敗北も知り、逃げ回って、涙を流して、男は一人前になる
①の選択をした場合、今までのように、生まれだけでは仕事が出来ません。
そこでは、実力・実績が求められます。
②の選択をした場合、これまで経験した事のない事に、挑戦をする事になる為、数多くの失敗が予想されます。
しかも、武士としてのプライドが高い為、農民や商人に頭を下げる事にも、かなりの抵抗がある事が予想されます。
③の選択をした場合、徳川家への忠誠という武士のプライドを守る事が出来ます。
しかし、今まで通りの裕福な生活は出来ず、食事にも困る貧困が予想されます。
当時、徳川家には、300,000人の家臣がいました。
7万石の領国では、給料を十分に支払う事が出来る人数は、5,000人が限界です。
それにも関わらず、徳川の家臣13,000人が、慶喜とともに、静岡に移住をしたのです。
移住後、当然、家臣の多くは、その日の食事も、ままならない生活に直面します。
そこで、彼らは、静岡の地で、農業をする事を、選択します。
…人に頭を下げて生きるのを潔しとしないならば、選ぶ道は、ただ1つ…
…それは自分で土地を耕し、食物を得ることだ…
『牧之原と最後の幕臣』中条の言葉です。
当然、中々上手くいきません。
試行錯誤を繰り返すも、米だけでは、生計を立てる事は、出来ませんでした。
しかも、米が育つ土地は、すでに、地元の農家達のものでした。
中条を隊長とする300人の武士達は、新たな農業の場所として、荒れた土地であった牧之原大地に着目します。
茶は、米と異なり、荒れた土地や山間部でも、栽培が可能です。
また当時、欧米において、茶の需要が急激に伸びていた事もあり、明治政府も、茶の輸出に力を入れ始めた時期でした。
1位:生糸
2位:茶
明治初期の日本の輸出品ランキングです。
中条は、江戸幕府時代から、親しかった勝海舟に、相談をします。
勝は「我、感激甚だしい。」と言葉を述べ、明治政府に働きかけ、中条に「開墾者」という役職を与えます。
そして、牧之原の気候や土質に適している茶を中心とした開墾が、始まります。
「…ここに居る選手達の中に、誰一人として、負けを経験しない者などいない。」
「たとえ、この大会の結果が優勝であったとしても、強者ほど、より上の強者に打ちのめされる。」
「挑む者だけに、勝敗という導(しるべ)と、その莫大な経験値を得る権利がある。」
「今日、敗者の君たちよ。明日は、何者になる?」

『ハイキュー』雲雀の言葉です。
♦今日敗者の君達よ。明日は何者になる?
時世も追い風となり、中条率いる牧之原開墾は、成功します。
一旦敗者となった彼らが、剣を鍬に変え、武士のプライドはそのままに、商売・経済という舞台を変え、勝者となったのです。
その後、中条は、明治政府より、山梨県知事になるよう勧められます。
しかし、中条は、この勧めを、断ります。
…一旦山へ登ったからには、どんなことがあっても、山は下りない…
『牧之原と最後の幕臣』中条の言葉です。
中条は、亡くなるまで、髷を落としませんでした。
現代まで続く、日本の茶は、敗者であった徳川家臣達が、挑み続けた財産なのです。
また、中条が牧之原を開墾した時と同時期、大井川の川越し制度が廃止され、1,300人の川越え人足が、失職をします。
この救済の為、33人の川越人足と家族が、牧之原への入植が認められます。
時代の流れにより仕事を失った川越人足は、時代の敗者となった徳川家臣とともに、牧之原開墾に、尽力します。
その後、茶の価格の低下に伴い、徳川家臣達は、徐々に、牧之原を離れていきます。
そこで、牧之原に住む農民達が、茶園面積を拡大していきます。
1879年(明治12年)には、蓬莱橋(ほうらいばし)が完成し、牧之原開拓地と島田の往来が、容易になります。
さらに、1889年(明治22年)には、東海道線が、開通します。
金谷・菊川・掛川駅から、鉄道輸送での出荷が可能になった事をきっかけに、牧之原の茶は、全国に広まっていきます。
その後の物語は、皆さんが、知っている物語です。
挑む者だけに、勝敗という導と、その莫大な経験値を得る資格があります。