「菅くん、焦らないで。」
「焦りますよ。あんな天才のフォロー役、ぼくは自信がありません。才能はあると思ってました。でもこういう形だとは思わなかった。保障のない努力を全力で長期間続けられるって間違いなく天才でしょう。こんな見た目と正反対すぎる才能をどう扱ったらー」
「そこがわかってるなんて、さすが菅くんだ。」
『美しい彼番外編集』主人公の1人清居の所属する芸能事務所社長とマネージャーの会話です。
天才には、様々な定義があります。
マネージャーの言葉通り、保証のない努力を全力で長期間続けられる事も天才でしょう。
歴史が好きな私は、歴史を振り返り天才を探す時、今までになかった価値観を見出し、その新たな価値観を時代の当たり前にまで構築する事が出来る人物を天才であると定義しています。
その点で日本史における武将の中で、天才よ呼べる人物は義経と信長の2人になります。
義経は騎兵を、信長は銃撃を、戦に取り入れ、それが後の時代の当たり前となりました。
頼朝や義経が率いていた兵は、そのほとんどが現在の関東に居を構えていた坂東武者でした。
彼らは、幼い頃から馬とともに生活をし、騎乗術にかけては平家の兵をはるかに凌ぐ能力がありました。
しかし、彼らの騎乗術は、個人競技に過ぎませんでした。
坂東武者も、平家も、騎馬隊を騎兵として、戦の中の戦術に落とし込むという発想は誰も持ち合わせていませんでした。
坂東武者を騎兵として、活用したのが義経です。
義経は、騎兵の持つ集団としての速度性・奇襲性・突破力等に日本史上初めて着目し、その戦術を創造し、成功させました。
鵯越の逆落とし、義経は少数の騎兵を率いて作戦を実行しました。
少数なだけに、義経がいつ京都から消えてしまったのか誰も気づきませんでした。
まして、一の谷にいる平家は、義経の動向に全く気付く事が出来ませんでした。
この騎兵による速度性・奇襲性・突破力が、義経の数々の奇跡を現実にものに変えていきました。
相手は大群を要していても、まず義経自身が奇襲と強襲を使い、敵の中軸を衝き、混乱に陥れる事さえ出来れば、後続群を持って追撃し勝利出来るという戦の方程式を義経は直感で理解しているようでした。
これまでの日本の合戦は、個々が騎乗しているだけで、結局個々が打ち破った兵の合計で勝敗が決まるような形式でした。
義経は騎兵を用いて、これまでの足し算の戦を、掛け算の戦に変化させました。
足し算であれば数が多い方が勝利しますが、掛け算であれば戦術次第で数が少なくても勝利する事が出来ます。
不思議なのは、そのような戦術思想がなかった日本において、義経がどのようにして、そのような着想を持つ事が出来たかという事です。
ここからは私の持論ですが、義経は少年期を奥州、現在の岩手県で過ごしました。
自然に溢れる奥州の地で、義経が馬の群れを毎日見て過ごしていたと想像出来ます。
馬は一頭が駆け出すと、皆一斉にそれを追うという習性があります。
義経は、奥州の地を駆けていく壮大な光景を眺めながら、騎兵という着想を思い立ったのかもしれません。
また、奥州に満州あたりに住んでいた騎馬民族の出身者が流れ着き、義経に接触していたのかもしれません。
義経は生きておりモンゴルに渡り騎馬民族となったという伝説もありますが、その逆でモンゴルの騎馬民族が義経に接触していたかのかもしれません。
奇しくも、日本史を振り返り、奇襲により時代を変えた人物は、義経の信長の2人だけです。
正論やこれまでの価値観に囚われない義経の生き方からは、現代の私達が学ぶ事が多分にあります。