「三世紀、日本。列島には、数十の国が立ち並び、互いの領土と財産を巡り、血生臭い争いが繰り広げられていた。倭国大乱である。」
「この乱を治めるべく幾人もの男達が、武力・策謀・道徳にて、人々に訴えてきた。‥が、全然ダメッ。」
「結局、その争いを鎮めたのは‥一人の女だった。邪馬台国。その王であった女は、日の巫女として、神託により人々を導いたのだ。日本原初の王。現代に至るも、謎多き半伝半史。未知なる女が、今ここに姿を見せる。その名はー卑弥呼。」
『魔女大戦』実況アナウンサーの言葉です。
2023年9月「吉野ケ里遺跡」に行って以降、私は「古代史」に夢中になっています。
これまで、戦国・幕末を中心に日本史に惹かれていた私ですが、現在は「古代史こそ面白い」という世界観になっています。
奈良を車で走っていると、いたる所に「古墳」がある事に、驚きます。
数多くある古墳の中で、最古の前方後円墳とされているのが、三輪山の北西にある纏向遺跡(まきむくいせき)の「箸墓古墳」です。
「箸墓古墳」は『日本書紀』によると、三輪山の神に仕えた巫女とされていますが『魏志倭人伝』において卑弥呼が亡くなったとされる時期と、古墳が作られた時期が重なる為、卑弥呼の墓ではないかとも言われています。
日本史と世界史を照らし合わせると、卑弥呼が生きた時代と「三国志」の時代が、重なる事に気付きます。
卑弥呼は、中華が三国にて戦いの中にある状況を「外交」において、巧みに利用します。
日本史の授業では、突然卑弥呼が現れ、占いにより、日本を治めたかのように習いますが、現実は、勿論そうではありません。
政治中枢にも卑弥呼に不信を抱く者はたくさんおり「邪馬台国」の周囲の国も卑弥呼に従順に従っていたわけではなく「狗奴国(くなこく)」とは長年に続く戦を繰り広げていました。
求心力を失った卑弥呼と、弱体化する「邪馬台国」を救う為の手段が、当時曹操が治めていた「魏」のお墨付きでした。
大国「魏」にも認められたという実績が、卑弥呼が、数々の国の上に立つ王となる為に、必要だったのです。
しかし、当時の「魏」は「邪馬台国」と比較し、軍事的・経済的・文化的に数十倍も進んでいた国でした。
ただ「認めてくれ」等とお願いをしても「魏」にとって何らメリットがない為、追い返されるのが関の山です。
そこで、卑弥呼は「魏」と争っていた「呉」の孫権が、海上から「魏」に攻め入る計画をしている事を知り、その作戦を利用します。
「魏」にとっても「呉」が「邪馬台国」を補給地とされ、攻め入れられる事は、国家の危機となります。
これを条件に、卑弥呼は「魏」の国から「親魏倭王の称号」を認めさせます。
私達が習った卑弥呼は「親魏倭王の称号」を得た後の卑弥呼だったのです。
日本史において「外交」が本格的に出てくるのは、幕末以降です。
江戸幕府は、ペリーの砲弾に対して、静観するという、現代の日本人にも通ずるであろう「外交」をします。
日本史を観客席から眺めると、上記の静観するという幕府の対応をみて「幕府はもう駄目だ」という心意気を持った若い志士が立ち上がり、維新が成ったと理解する事も出来ますが‥。
実は、弥生時代から、日本人は巧みに海外情勢を観察し、自分達に有利になるように「外交」を進めていたのです。
これから人口が減少する事が、決定している日本。
卑弥呼のように巧みに海外情勢を観察し、自分達に有利になるような「外交」を進めていく事が、政府ではなく、個人にも求められる時代になるのではないでしょうか?