聞けば聞く程、役の情景が立っていって、朱音(あの子)の存在が高座から消えていく

 

 …何なんこの感じ。聞けば聞く程、役の情景が立っていって、朱音(あの子)の存在が高座から消えていく…

 …客に上手いと思わせる内は二流‥とはよく言ったもんやな。高座から演者が消える。聞き手が噺の世界に集中するあまり、演者の存在が消えたように感じる。名人クラスの高座を観た時、稀にそう錯覚するコトがあるが、まさか可楽杯で味わうなんて…

 『あかね噺』あかねの落語を観ている時の演者達の脳内言葉です。

 

 

 昨日、ネイマールが夢に出てきました。

 パリのユニフォームを着て「チャンピオンズだけはパリで出場する契約なんだ。」と言って、チャンピオンズをプレイしていました。

 そこには、引退したはずのズラタンも、パリに何の因果もない元ガナーズのカピタンで謎の10番ギャラスも、ネイマールと一緒にプレイしていました。

 

 近代化し、組織化し、科学が導入されてきたフットボール。

 そのような時代の中で、1人だけ、自分の技を魅せる事に拘っていた男がネイマールです。

 ネイマールの姿を観ていると、私は、子どもの頃家の前で友人とサッカーをしていた思い出や、部活が休みの時サッカー部以外の友人も混じり駐輪場で延々とミニゲームをしていた思い出が、脳内に過ぎります。

 そこでは、勝ち負けや戦術・ポジション等は関係なく、ただどれだけそこに参加している友人達を魅了させるか、さらには、どれだけ普段サッカーをやっていない友人達を楽しませるかばかり考え、純粋にサッカーを楽しんでいました。

 

 

 純粋にサッカーを楽しむ。

 進化したフットボールにおいて、これを世界最高峰の舞台でやり続ける事は、困難になってきています。

 しかし、1990年代から2000年台前半まで身体が大きく足が速い選手に任せ、後は気合いで闘うというフットボールの流れを、ロナウジーニョがその笑顔で変えてくれました。

 

 その後、バルサとスペイン代表のフットボールが、身体の大きさも足の速さも関係ない。ボールを扱う事に優れた者が、世界一である事を証明してくれました。

 そのバルサのカンテラ(下部組織)から、歴代NO1の選手が生まれ、そのNO1を決して認めない男との頂上戦争が15年続き、彼らが表舞台に立った数年後ブラジルからも歴代のブラジル選手NO1の選手が誕生していく物語。

 これが、近代のフットボール史です。

 

 ネイマールは、誰よりも、子どもです。

 自分の思い通りにならないと子どものように怒りを露わにしますし、子どものように相手を挑発しますし、子どものように涙します。

 しかし、それでも、試合前にチームメイトと談笑したり、相手チームの選手と握手をしたりハグをしたりする姿が、最も絵になる選手の1人である事に変わりありません。

 さらに、普段のリーグ戦で手を抜く選手も、ネイマール位ではないでしょうか。

 パリを応援し続けてきた私にとっては当時は怒りすら覚えましたが、今となってはその姿も含め、懐かしいです。

 事実、ネイマールのいないパリはネイマールがいる時よりも組織的には強いですが、魅力的ではありません。

 

 フットボールは、自由です。

 自由こそ、フットボールです。

 このような時代の中、多くの選手と同じルートではなく、ストリートで遊んでいるそのままの姿というルートから、世界中を魅了してくれる男の誕生を心待ちにしています。

 私は、フットボールを観ながら、過去の自分の思い出を感じたいのかもしれません。