自分と向き合い、試行錯誤を重ねた年月を経て、芸に味が出る

 

 「あかねるは、今まで自分がどんな落語家なのか考えたこともなかった。それを考えるキッカケに噺を選ばせた。まぁ選んだのは、仁と合わない噺だったけど。夫婦に流れる家族の情、父と娘の関係性で代替し、仕上げてみせた。今日の出来だって、あげの稽古の時よりいい。前の二人と差があるとするなら、自分の芯に向き合った時間だね。」

 『あかね噺』阿良川マイケルの言葉です。

 

 私は、個人の感想しか出てこない福祉や介護に専門性はないのではないかと仮説を立て、過去数年間心理学の勉強をし、資格を取得し、仕事の幅も拡げてきました。

 しかし、現在、心理学にも似たような疑問を抱いています。

 ここ数年間で心理学者や精神科医が執筆した本が、本屋に数多く並ぶようになりました。『Newton』『プレジデント』等の雑誌においても、文を添えている人は心理学者や精神科医が最も多くなっています。

 ただ、心理学者や精神科医が、果たして専門性が高いと言えるのでしょうか?

 

 

 オーストリア出身の精神科医、アルフレッド・アドラーのアドラー心理学を例に挙げてみましょう。

 アドラー心理学の理論の中心の1つとなっているのが「優越コンプレックス」です。

 アドラーは「あらゆる人間の行動は、自分を向上したいという欲求から生まれる」と主張しています。

 

 ここで、川で溺れる子どもを救った男を、アドラー心理学の視点から、観察してみます。

 アドラー心理学に照らし合わせれば「男は、自分の命を危険に晒しても、子どもを助ける勇気がある事を証明した。」となります。

 しかし、同じ男が子どもを助ける事を拒んだとしても「男は、社会から非難を受ける危険を冒して、子どもを助けない勇気がある事を証明した。」となります。

 

 つまり、アドラー心理学に照らし合わせると、子どもを助ける・助けない、どちらにしても優越コンプレックスを克服した事になるのです。

 これは、私の持論ですが、何にでも当てはまる事は、専門性が低いです。

 ここが、私が福祉や介護に専門性がないと感じている点の1つでもあります。

 

 ただ、何にでも当てはまるという事は、どのような人にとっても説得力のあるものに感じるという事です。

 これは強みであるとともに、裏返せば弱みでもあります。

 これも私の持論ですが、本屋に多く並ぶ本の殆どは何にでも当てはまるもの、つまり専門性が低いものです。

 このような現象を、心理学ではクローズド・ループ現象と呼びます。

 

 

 人の思考や組織、はたまた仕事や専門分野等、その殆どが失敗や課題が見つかってもそれが改善に繋がらないクローズド・ループ現象の中に存在します。

 この現象に相対するものとして、私が思い浮かぶのは科学です。

 

 中世の知的世界では、何世紀もの間、知の巨人アリストテレスが絶大な権力を持っていました。

 アリストテレスは「重い物程、速く落下する」と主張し、人々はほぼ盲目的に信じていました。

 しかし、ガリレオは、アリストテレスの主張を疑い、その真偽を確かめる行動に出ます。

 

 ガリレオは、ピサの斜塔に登り、重さの異なる2つの球を落とすという検証を行いました。

 その結果、球はどちらも同時に着地し、重さにより落下する速度に違いがない事が証明されました。

 アリストテレスの失敗は、公のものとなりました。信者にとっては大きな打撃となり、その多くが実験に対して猛然と意義を唱えました。

 しかし、科学にとっては、大きな前進となりました。

 実験の結果から新たな仮説が導き出され、再び反証に晒されれば、そこからまた進歩が生まれるのです。

 

 

 日本人は、意見を言う時、皆と同じでなければいけないというバイアスに囚われています。

 しかし、皆と同じ意見を言うのであれば、そこにあなたが存在している意義はあるのでしょうか?

 仮に、専門家として意見を求められたり、専門家の意見を聞くのであれば、何にでも当てはまるような意見を言わないようにする、または何にでも当てはまるような意見を言う人には疑いの目を向けてみて下さい。

 

 これは、科学等の専門分野だけの話ではありません。

 自分の人生にも、当てはまります。

 自分の芯と向き合い、様々な仮説と検証・反証を繰り返し、行動してきた人は、魅力的な大人になっていきます。