「…ここに居る選手達の中に、誰一人として、負けを経験しない者などいない。」
「たとえ、この大会の結果が優勝であったとしても、強者ほど、より上の強者に打ちのめされる。」
「挑む者だけに、勝敗という導(しるべ)と、その莫大な経験値を得る権利がある。」
「今日、敗者の君たちよ。明日は、何者になる?」

『ハイキュー』雲雀の言葉です。
♦戦争から帰還し、副業を転々とする
戦後日本に帰還後、水木の「副業人生」が、始まります。
水木は、失った左腕の手術の為、旧陸軍病院に入院をします。
入院中、偶然見かけた新聞広告を見て、武蔵野美術学校(現:武蔵野美大)を受験します。
本人曰く、奇跡的に合格し、武蔵野美大に入学します。
目指すは、絵描き。
しかし、実家が太いわけではない水木は、ひたすら絵を描いているだけでは、生活が出来ません。
日々生活をする為の、お金を稼ぐ必要がありました。
☆闇米の買い出し
★傷病軍人による募金活動
☆魚屋
★リンタク屋
☆不動産賃貸
水木が、まず手を出したのが、闇米の買い出しでした。
千葉の農家で米を買い付け、東京で売ると、1回500円程の利益が出ました。
この頃(昭和21年)の一世帯当たりの消費支出が月2,000円程だった事からも、効率の良い稼ぎ方であった事が、伺い知れます。
しかし、水木は、列車の中で財布を盗まれたのが、きっかけで、闇市から手を引きます。
そうした中、病院に通う仲間に、傷病軍人の団体の集まりに誘われます。
傷病軍人が、街頭募金をする光景を、ドラマ等で観た事があるかもしれませんが、水木達は、その走りでした。
余談ですが、私が、インドを旅した2008年には、物乞いで稼ぐ為、親が子どもの足を1本切り落とし、片足の子どもにし、物乞いで稼ぐという親子が多く見られました。
仲間ととともに、街頭募金で日銭を稼いでいると、仲間内で「魚屋をやったらどうか?」という話が出ます。
当時、魚は「配給制」でした。
魚屋の免許さえ持てば、後は、週に1回の「配給」の日に、魚を配ればいいという仕事でした。
しかし、水木は隻腕の実。
魚が捌けないと躊躇っていると「手伝って貰えばいい」と押し切られ、学生兼魚屋になってしまいます。
現在ならば、若手実業家ともいえるような身分になりますが、水木自身は、満たされていませんでした。
儲かっていないわけでもないが、好きな絵を描き続けられる程の利益が出ているわけでもない。
結局、水木は、店を手伝ってくれていた友人に、魚やの権利を、40,000円で売る事にします。
「あなたは、張り詰すぎです。過酷な状況こそ、こうして休息はしっかり取らないと。」
「そーいうもんかな‥。」
「そーいうもんです。それに夫婦なんですから、お背中流すのに一々照れてどうするのですか?」
「‥照れてるわけじゃない。苦手なんだ風呂。緊張や戦の勘が湯に溶けていくようで‥。」
「私がご武運を濯いでいると?」
「そ、そういう意味ではないっ。」
「あなたは、張り詰め過ぎです。休める時はしっかり休まないと、本当の戦いの前に倒れてしまいます。」
「本当の戦い?何か控えていたか?」
「いいえ。人生という名の戦いです。平穏に真っ当に己の信念に寄り添いながら、時に棹差し時に隠し‥それでも決して手綱は離さない。川中島だって目じゃない。長い長い人生という名の戦です。」

『地獄楽』画眉丸夫婦の会話です。
♦好きな事をして生きていくには、金が必要
水木は、魚屋を売った金で、今度はリンタク屋を始めます。
リンタクとは、自転車に客席を取り付けた営業用の三輪車です。
日本では浅草等の観光地に見られる人力車が近いイメージですが、東南アジアでは、今でも健在の交通手段です。
リンタクは、ガソリン不足・僅かな費用で参入出来るという時代背景から、戦後すぐに爆発的に普及しました。
★リンタクを、20,000円で購入する
☆1日500円で、人に貸す
水木は、自分ではリンタクを引かずに、人に貸し付ける事で、利益を得ていました。
その為、昼まで寝て、パチンコで稼ぎ、学校に行くという水木の好きな生活をする事が、可能になりました。
毎日寝ているだけで、1日500円の定期収入があるから、それを貯めておく事で、1カ月半に1台新しいリンタクを購入します。
これにより、水木は、寝ているだけで、収入を増やす事に、成功します。
風貌からは想像もつかないような、ビジネスの才覚に、驚いてしまいます。
「絵描きになるには、10,000,000(1千万円)ないと、生きていけない。」
水木は、学校で、衝撃的な言葉を聞きます。
つまり、絵描きは、実家が太い資産家の子どもでなければ、目指す事が出来ないという事でした。
これは、現在も、同様でしょう。
水木は、ここで改めて「絵描きは無理かもしれないが、好きな事をして生きていく為には、金が必要。」と実感します。
もっと稼がねばいけないと、水木は、今度は、リンタク屋を手放します。
病院仲間から「都会よりも、田舎の人の方が優しいから、募金をたくさんしてくれる。」という話を聞き、仲間とともに、募金行脚の旅に出ます。
しかし、都会の人よりも田舎の人の方が優しい事も、募金をたくさんしてくれる事は、ありませんでした。
同情して金を落としてくれるかどうかは、場所の問題ではなく、人の問題です。
実際、旅費だけがかさんだ為、水木は、まだ旅費が手元にあるうちに、東京に戻ります。
「損切り」が出来る事が、水木の強みです。

♦数々の副業の中で、漫画家人生のスタートに立つ
水木は、東京に戻った後、リンタクで稼いだ100,000円(10万円)を持ち、郷里に帰ります。
この選択が、水木の運命を大きく変えます。
1950年(昭和25年)帰郷の途中で宿泊した、神戸の女将が「200,000円(20万円)で宿を買わないか?」と提案してきます。
15部屋あった宿の為、一生寝て暮らせると、夢は膨らみます。
勿論、タダでいい話が舞い込むなんて事はなく、宿の借金1,000,000円(100万円)を引き継ぐという事が、条件でした。
それでも、水木は、この話に乗ります。
父親に無心する等して、残りの金をかき集め、予期せぬ形で「不動産賃貸業」を始める事になります。
この宿は、兵庫県水木通りにあった為「水木荘」と名付けられます。
そうです。
これが後に「水木しげる」のペンネームとなります。
水木の漫画家人生は、ここからようやく始まります。
現在、行っている仕事・勉強等が、本当になりたいものと違ってもいいのです。
それでも、何か1つでも新しい事に挑戦をしていれば、その道は、きっと思わぬ形で、どこかに繋がります。
