「誰にだってチャンスを与えるべきよ。スタイルの良い人間だけが、見た目で褒められるなんて不公平よ。」
「…ママの言っていること滅茶苦茶だよ…可愛くてスタイルの良いあの隊員が他の人に配慮しないといけないなら、あらゆる優れた人が他人に配慮しなければいけないんじゃないの?ママは灰島のエリート研究員で、他の人より頭が良くて優れているんでしょ?でも、もし研究員になりたくてもなれない人がいたら、ママもその人に研究員の席を譲るべきってことだよね?」
「スポーツだって下手くそをレギュラーにしなきゃいけないし、大学も馬鹿を入学させないといけない。音楽は…見た目だけの下手くそがいっぱいいるけど…」
「ママは、努力して頭が良くなったの。生まれつき見た目が良い人とは違う。頑張って努力したから、今があるの。一緒じゃないの。」
「頭の良し悪しも、才能だよ。世の中、勉強の仕方もわからない頭の人達がごまんといる。そうじゃなかったママは、生まれつき頭がいいんだよ…そのおかげで、僕も学年トップの成績だし。それにあの女性隊員の引き締まった身体は、美しいよ。あの身体の美しさは、毎日のトレーニング…努力の賜物だよ。」
「いくらそうやって他人を攻撃して、抑制を強要しても、自分自身が変わらなきゃ、自分の性的不満は解消できないよ。」
「もしかしてママって、物事をよく考えずに、ただその場の情報に流動するだけのモブなんじゃないの?」
『炎炎ノ消防隊』ママとタツト君の会話です。
昨日ryuchellが死去したニュースが流れ、死因は自殺であるとされています。
芥川龍之介の遺書のように、自殺の要因は1つではないと思いますが、その1つに社会の偏見があったと思われます。
ryuchellが苦しんだ偏見とは「男性」「女性」といったカテゴライズされた社会の偏見ではないでしょうか。
男性でも、女性でもなく、ryuchellであるにも関わらず、社会、特に高齢者やその下の世代の人達にはそのような理解が欠けている、若しくは皆無であると感じます。
私自身も、介護保険の仕事で高齢者やその下の世代の家族等と関わる時に「男性なんですね。」「女性でお願いします。」等と、こちらではどうする事も出来ない性別という理由だけで、偏見に直面する事がいまだにあります。
私達は、人や物を似ているもの同士で分類する(カテゴリーに分ける)事が、よくあります。
たとえば「アメリカ人」「大人」「女性」というように、国や年齢、性別等に応じた社会的カテゴリーがあります。
そして、それらの社会的カテゴリーが持つ共通の特徴について単純化した固定観念の事を、ステレオタイプと呼びます。
社会心理学者のコーエンは、ステレオタイプが人の認知をいかに歪めるか示す実験を行いました。
この実験では、参加者に夫婦が誕生日を祝っている映像を見せます。
その中で参加者を「女性は図書館司書である」と伝えたグループと「女性はウェイトレス」であると伝えたグループに分けました。
映像を見せたあと、女性に関する記憶テストを行いました。
すると「図書館司書である」と伝えられたグループでは「メガネをかけていた」「本棚に本がたくさんあった」等、図書館司書のステレオタイプに合致する内容がよく記憶されていまいした。
これに対し「ウェイトレスである」と伝えられたグループでは「ポップミュージックを聴いていた」「ハンバーガーを食べていた」等、ウェイトレスのステレオタイプに合致する内容がよく記憶されていました。
このように、私達は無意識のうちに、他者の特徴をステレオタイプというフィルターを通して認識してしまう傾向があります。
他者の特徴を素早く把握出来るという点においては、ステレオタイプは有用です。
しかし、人は多様な特徴を持っており、必ずしもステレオタイプにあてはまるとは限りません。
また、あなたが持つステレオタイプの内容が、現実に即していない事も、多々あります。
観察力のない人程、人を型にはめて理解しようとします。
相手を見ず、自分の浅はかな考えだけで、物事を理解しようとしても、すぐに成長の限界が訪れます。
大切なのは、思い込み(ステレオタイプ)を捨て、目の前の現実を観察する事です。
偏見に捉われず、他者を正しく理解する為には、他者の特徴をステレオタイプにより断定していないか、疑ってみる事から始めていきましょう。
そして、最後にホリエモンのメッセージを。
「ネットに悪口を書くな」