「父の浮気、母さん知ってたみたいです。」
「…そう…夫のことを撮るって決めた時、娘が私の解釈をみて傷つかないかとか、家族だから感謝だけを描くべきなのかとか、いろいろ考えるべきことが出てきたの…そこで気づいたのは、私に起こった出来事を俯瞰している自分が常にいるということ。今自分がどういう状況にいて、どう思ってどう感じているのか、考え続けるのが映画作りなんじゃないかって…思い始めたの。」
「…俺は、あの人の浮気が赦せないんじゃなくて、俺が、俺のせいで…両親の関係を壊したくなかった。だから、うまく隠し続けないといけないと…思って…その自信なくて距離を置いていったんだなと、さっき実家で気づきました。自分を俯瞰する感覚、すごくわかります…そのうえで…本心は認めてほしいって思ってしまって。」
…今、どうしたって苦しくて…
「仲がいい夫婦で、自分はそういう家に生まれた子供で、もしそうだったら…って、俺は親に期待し続けています。それが子供っぽくて、嫌で。苦しい…」
「…今少しね、あなたをどう撮ればいいかってことを考えてしまった。」
…家族だから認めてもらわなくていいとか、実感のない慰めよりも、そういうものより確信できることは…
「海くん…私たちは、映画を撮っている限り強い…苦しいこと、やりきれないこと、怒り、悲しみ、喜び、全部、俯瞰してやりましょう。情けないあなたは魅力的だし、とっても映画的だわ。」
『海が走るエンドロール』海とうみ子の会話です。
気付けば、誰もついてきていない。
吉田松陰は、萩、野山の獄中で、失望していました。
高杉晋作も、久坂玄瑞も、桂小五郎も、誰も、松陰の考えについて来る者は、いませんでした。
一体、どんなすれ違いがあったのでしょうか?
松陰が、松下村塾を叔父から引き継いだのは、27歳の時です。
その2年前、松陰は、下田にてペリーが来航した黒船に乗り込もうとして失敗し、幕府に逮捕されます。
松陰の行動力には、ペリーも驚愕し「日本人は探求好きだ。」という言葉を残しています。
松陰が、松下村塾のモットーとして掲げたのは「知行合一」でした。
知識は行動の始まりで、行動は知識を完成させるという意味です。
松陰は、門下生に「学者になってはいかん。人は実行が第一である。」と常々声を掛けていました。
塾生の中でも、松陰が特に目をかけていたのが、高杉晋作でした。
武士である晋作の親は、過激な松陰から学ぶ事に大反対をしましたが、晋作は親の反対を押し切り、松下村塾の門下生となります。
ある時、桂小五郎は晋作について「他人の言う事を聞かない頑固者だから、注意してほしい。」と松陰に頼んだ事がありました。
しかし、この桂の依頼に対し、松陰は「晋作の頑質はよく解釈すれば、妥協を許さないという1つの個性である。みだりに矯正しては、ひとかどの人物になれない。」と伝えます。
門下生達の育成に手応えを感じていた松陰ですが「知行合一」を実行した結果、再び幕府に捕らえられてしまいます。
松陰は、獄中においても倒幕の計画をしていました。
しかし、門下生達は、時期尚早と倒幕に反対します。
松陰のもとには、計画の中止を求める血判状が送られてきました。
絶望した松陰は、門下生を全員破門としています。
自分の教えは、無駄だったのだろうか?
そんな思いを振り切るように、29歳の若さで処刑される前に、松陰はこんなメッセージを、次の時代を託す若者に向けて残しています。
「もし同志の士に、僕の微衷を憐れんで、それを受け継いでやろうという人があるならば、その時にこそ後に蒔くことのできる種子が、まだ絶えなかったということで、おのずから収穫のあった年に恥じないということになろう。」
「身はたとい 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
現在の南千住にあった処刑場で、処刑される前に松陰が残した辞世の句です。
師の死を知った晋作は、怒り、悲しみ、苦しみました。松陰の師をきっかけとし、ここから皆が知る、奇兵隊の高杉晋作が生まれます。
そして、久坂、晋作、桂とバトンは受け継がれ、倒幕を果たし、日本は夜明けを迎えます。
「知行合一」を掲げ、行動を最も大切にした松陰。
俯瞰とは真逆の思考を持つ松陰ですが、松陰の死後の門下生達の活躍を見ていると、松陰は先の時代をも俯瞰していたのではないかと、つい考えてしまいます。