誰が何と言っても自分の理想の方がずっと高いから、ちっとも動かない。驚かない2

 

 「うるせぇ。」

 小さな会場は、水を打ったように静まり返りました。

 高校最後の公式戦、ある男がドリブルで抜け出すと、敵陣のゴール手前で2対1の展開になりました。隣の味方にパスを出せば、確実にゴールとなる状況です。

 しかし、その男はパスを出さず、GKをドリブルで抜こうとします。そこで、相手に引っ掛けられ得点する事が出来ませんでした。

 ベンチからは指導者から「何で出さないんだ。」と怒号が飛びます。これに対し、その男が放った言葉が冒頭の「うるせぇ。」です。

 三苫薫の物語です。

 

 

 私は、過去数年間、生じる問題の殆どは「人類の進化によるものである」と考えていました。

 不安を感じるのも不安を感じる力が強い人類が生き延びた為であり、運動不足と感じるのも人類は走る為に進化をしてきた為であり、仲間を求めるのも集団で生活する事でしか人類が生きていく事が出来なかった為であるという様に。

 しかし、最近1年間で、その考えに変化が生じています。

 現在の私の考えは、生じる問題の殆どは「日本人だから」生じているのではないかというものです。

 

 

 例えば、福祉を先行する大学生が、実習先の施設において、利用者に対し「どんな原因で発病したのですか?」と質問をし、これを実習先の指導者は問題視し、実習取りやめになる寸前までなってしまったという相談がありました。

 日本人の感覚では「実習生が利用者に対して、そんな事を聞くものではない」という世界観なのでしょうが、私は強い違和感を覚えます。

 世界の感覚では「リスペクト」を大前提とし、実習生も利用者も働く人達も、その立場によって判断するのではなく、まず1人のリスペクトの対象である人として接していきます。「実習生だから」という前提は、リスペクトに欠けるものです。

 また、授業では誰もが排除されない世界をという「ソーシャルインクルージョン」や誰もが普通に生活を送れるようによいう「ノーマライゼーション」等の概念を教えているにも関わらず、実習先では実習生を排除し、実習生が普通に生活を送る事も出来ない状態を作っているという矛盾が生じています。

 

 確かに、世の中は、矛盾だらけです。

 世の中の殆どは白か黒ではなく、グレーにより成り立っています。

 それを知る場所としての実習という一面もあるかもしれませんが、大学生であれば、実習に行く以前に、社会がそのように成り立っている事等、承知のはずです。

 

 

 日本人は、他人に関心があり、嫉妬深い人が多いです。

 世界は、そもそも自分以外にあまり関心がありません。

 リスペクトの中心を、自分に置く。まず、自分をリスペクトし、そこから他人にリスペクトを拡げていく。

 自分をリスペクト出来ない人が、他人をリスペクトする事等、出来ません。

 

 

 「日本人だから」という問題は、サッカーにおいても生じています。

 真面目な日本人は「ボールを持ったらパスを出さなければならない」「常に動いていないといけない」というバイアスに縛られています。

 おそらく、子どもの頃から、そのように指導されてきたのでしょう。

 

 しかし、サッカーにおいてボールを持ったらパスを出さなければならないというルールは存在しません。

 敵が来ないのであれな敵が来るまで、ボールを持っていればいいのです。そして、敵が来ないのであれば、動く必要はありません。

 フリーな味方を探すのではなく「お前がフリー」なのです。

 

 私がリヴァプールでプレイする南野を観ていて感じた事の1つに「動き過ぎ」というものがありました。

 これらの現象も、私は「日本人だから」生じているものであると考えています。

 常にパスを出す事が第一優先である為皆同じようなプレイとなり、ボールを奪っては奪われての繰り返しのみとなる。

 常に動いている為、スピードに緩急がなく、結果的にゆっくり動いているように見えてしまう。

 この結果が、観客が最もワクワクするゴール前までボールが運ばれてこず、スローインがやたら多い退屈な試合を作っています。

 

 パスが第一優先ではない・動かない事も選択肢である。

 そんな日本人選手を育成の段階、つまり、子どもを教える指導者が育んでいく事が、日本サッカーの発展の為には必要です。

 

 

 「うるせぇ。」と言い放った男が、プレミアで最も恐れられるドリブラーとなっている事が、その証明です。