…あらゆる者が、一目見ただけで妾を愛した。あまりに容易に手に入る、絶対的かつ一方的な愛。それは果たして、愛なのか…
…愛されていただろう?と問われれば、沈黙で答えるだろう。なぜなら‥誰一人として妾の心まで知ろうとする者がいなかったからだ…
…妾は‥愛を知らぬ。故に‥妾は心から人を愛したことがない…
『魔女大戦』クレオパトラの言葉です。
天下統一を果たした豊臣秀吉にも、悩みがありました。
秀吉の跡継ぎ、つまり、子が生まれなかったのです。
秀吉の妻や妾は、100人以上もいましたが、それでも、秀吉の子は生まれませんでした。
そのような中、妻の1人である茶々(淀殿)が、妊娠します。
思わぬ懐妊に、秀吉は、飛び上がり喜んだと伝わっています。
1589年、茶々は無事に男児を出産します。
生まれた子は「棄」と名付けられ、後に「鶴松」と改名されます。
秀吉53歳、茶々21歳の時の子どもです。
秀吉は、生後間もない鶴松を後継者にすると公言します。
しかし、天下人でも、ままならないのが人生です。
予期せぬ幸福が訪れる事もあれば、絶望のどん底に叩き落される事もあります。
鶴松が、わずか2歳で病死してしまうのです。
憔悴した秀吉は、失意の中、甥の秀次を養子に迎え、関白の座を譲ります。
そのような中、1592年、茶々は、またも妊娠します。
秀吉もさぞ喜んだと思いきや、最初の妻である寧々に下記の内容の手紙を送っています。
「私はもう子どもは欲しくないので、寧々もそう心得てくれ」
長く子どもが出来なかった寧々への気遣いもあったと思いますが、秀吉自身、子どもに期待する事が辛かったのだと思います。
手紙には、さらに「私の子は鶴松であったが、この世を去ってしまった。今度の子は茶々一人の子にしたらよいのではないだろうか」とも記されています。
しかし、いざ2人目の子どもが生まれると、秀吉は溺愛します。
秀頼を後継者とする為、後継者にしたはずの秀次を死に追いやってしまいます。
秀頼が4歳の時には、下記のような溺愛の手紙を秀頼に送っています。
「ただちにそちらへ参りまして、口を吸いたく思いますぞ」
翌年、死の床についた秀吉は、徳川家康を枕元に呼び寄せて「秀頼を頼む。」と手を握って懇願しました。
家康により、最愛の秀頼が窮地に追いやられる未来を、秀吉は予見していたのでしょうか?
どんな成功者にとっても、ままならないのが人生である事を、秀吉の人生から学ぶ事が出来ます。