「おいヘタクソ、もっと光れ。もっと躍動しろ。お前を喰って、俺がこの試合の主役になる。」
「ハッやってみろよ。脇役王様(ワキヤクキング)。」
「俺が決めるよ。あと1点。」
「いくぞ逆転‥。」
「最終局面(クライマックス)♪」
…このままじゃ終われねぇ…
…クソ共が‥余計なコトしやがって。次の1点は、絶対に俺が決める!!これは、凛(おれ)のゲームだ…
…糸師冴(アイツ)を倒し、凛(オレ)の名を世界に刻む。これは、凛(おれ)の物語だ…
『ブルーロック』馬狼・潔・凪・雪宮・蜂楽の言葉、そして、糸師凛の脳内言葉です。
古代史がつまらなく感じる理由の1つに「摂政」「関白」「上皇」等、その時の時代により、異なる役職の人物が時代の表に出てきて、政治を司っていた事が挙げられます。
それも信長・秀吉・家康程、キャラが立つわけでもなく「お前、誰だよ。」とツッコミたくなってしまいます。
そのような中でも「藤原道長」の名は、誰もが知る所でしょう。
道長が、後世にまで語られる物語の主人公になった理由は、運の良さです。
平安時代に登場した「摂関政治」とは「天皇」の外戚(外祖父)が「摂政」や「関白」の地位につき、天皇の後見人として、政務を代行するシステムの事を言います。
「摂政」は「天皇」が幼少であったり、女帝であったりする際に設けられ、先の時代の中大兄皇子の様に「皇太子」がなる事が通例でした。
しかし、858年清和天皇の外祖父である藤原良房が臣下で初めて「摂政」の地位につきます。
良房は、藤原氏北家の出身であり、次いで息子の基経がその地位を継承し、884年「関白」に就任します。
「関白」とは、成人した「天皇」のもとで「摂政」同様の政務を行う官職を言います。
後の世で秀吉も「関白」の地位に就いています。
以降「摂政」「関白」の職は、藤原氏北家が世襲していきます。
「摂関政治」は藤原氏の代名詞ともなり、11世紀末まで150年以上に渡り続く事になります。
藤原氏北家は「摂政」「関白」を出す家柄という意味で「摂関家」と呼ばれるが「摂関職」をめぐっては、家内で泥沼のような権力争いが常に行われていました。
「摂政」「関白」に就任する為には「天皇」の外戚である事が条件でした。
その為「摂関家」は、娘を産む必要がありました。
後の世で「堺の商人」が「子どもは、娘がいい。子どもは選べないが、婿は選べるから。」等という言葉を残していますが「摂関家」においても、子が娘である事が強く望まれました。
娘が生まれても「天皇」に気に入られなければならない為「摂関家」の男達は、愛娘に紫式部や清少納言等の優秀な家庭教師をつけ、教養を身に着けさせる等、天皇に気に入られるような才女に育てる事に必死でした。
「天皇」に気に入られれば、それで終わりではありません。
「天皇」に輿入れをしても、孫に男児が生まれなければ「天皇」の外戚として「摂政」「関白」の地位に就く事が出来ません。
つまり、権力の掌握には、努力だけでは辿り着く事が出来ない運が必要だったのです。
…この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることもなしと思へば…
有名な道長の歌です。
「摂関政治」の全盛は、道長の時代です。
道長は「摂関職」にあった兼家の四男であり、通常であれば政治の実権を握るのは困難な立ち位置でした。
しかし、運が道長に味方します。
兄達が次々に伝染病で没し、兄の娘達は男児を産む事が出来なかったのです。
その間に、道長は娘の彰子を一条天皇の「中宮」にする事に成功します。
そして、幸運にも、彰子は男児を産み(後の後一条天皇)外戚となる事にも成功します。
道長の幸運は、止まりません。
その後も、2人の娘を天皇へ輿入れさせ、3人の娘を「皇后」にするという前代未聞の快挙を成し遂げます。
これにより、道長は30年もの間、比類なき権力者として君臨します。
女性にもモテたと伝えられている道長ですが、一説には紫式部は道長の愛人とされ『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルは、道長であったとされています。
しかし、人生には良い事もあれば、必ず、悪い事もあります。
運が良い時が訪れば、必ず、運が悪い時が訪れるのです。
道長の娘達が、次々と病死してしまいます。
息子の頼道も「摂関職」に就いたものの「皇子」は生まれませんでした。
道長の息子の大で「摂関政治」は、終焉を迎えます。
政治権力は「摂政」「関白」から「上皇」へ移っていきます。
1人の人物の物語を知る事で、人生の予習をする事が出来ます。
大人になってからの勉強は、選び放題・学び放題です。
そこで得た知識を、自分の人生に活かしていけばいいのです。
あなたの人生のモデルを、親や友人・上司等にしておくのは、非常に勿体ないです。
人生のモデルを、信長や秀吉、家康にする事が出来るのです。
その贅沢を堪能しない理由等、ありません。