「そもそも、俺はなにも高望みなんてしていないんだ。ただ普通につきあいたいだけだ。なのにあいつは気持ち悪すぎる。俺の理解の範疇を超えている。」
…同棲までしている恋人同士なのに、いつも必ず別れる前提で話を進める。清居と自分がつきあっていること自体神の采配ミスだと言う。だから神がミスに気づいて修正に乗り出せばつきあいは終わると言う…
…清居とつきあっている今が幸せすぎて、きっと一生分の運を使い果たしてしまっただろうから、自分はいつ死んでもおかしくないと結論づける。しかも清居を美術品や夜空に輝く星扱いして、はなから人間・清居その気持ちを考えようとしない…
「清居くん、そのノロケまだまだ続く?」
「ノロケじゃなくて、俺は嫌がってるんだ。」
「ううん、どう聞いてもバカップルのノロケにしか聞こえない。」
『美しい彼』の一説です。
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」
武田信玄が残したとされる言葉です。
「人は城」という言葉から、信玄は城を築かなかったと思われがちですが、実際は国境や侵攻先に城郭を築き、支配体制を固めていくのが、信玄の戦略です。
さらに「人は石垣」と言いながらも、信玄の躑躅カ崎館(つつじがさきやかた)では、石垣が確認されています。
「人は堀」と言いながらも、半円の堀を伴った「丸馬出し」や、ブーメラン型の「三日月堀」を使って城郭を守っています。
勿論、上記の言葉は「人材が重要」という比喩であり「情けは味方、仇は敵なり」という部分に、信玄の人となりが凝縮されているように感じます。
信玄は、多数の隠密により、家臣達を監視していました。
信玄は、味方に対しても、警戒を緩めませんでした。
「女房と寝る時も、刀を手放すな」という言葉を遺しているように、信玄は、家族すら、信用していませんでした。
それには、理由があります。
信玄は、実の父親である信虎を追放して、21歳の若さで家督を継いでいます。
後の世では、信玄を「暴君だった信虎を追放した若きヒーロー」として扱われる事が多いですが、実態は異なります。
内紛が続く甲斐の国をまとめるには、信虎のような強いリーダーが必要だったのです。
信虎は、甲斐の財政難を解消すべく、家ごとを対象にした課税を設定し、実行します。
家臣達は、課税を払いたくないが為に、幼い信玄を担ぎ上げ、反乱を起こしたのです。
若き時に、そのような経験をした信玄だからこそ、家臣や家族であっても、警戒してもし過ぎる事はないという信玄の戦術の背景にあります。
父のように、強権的に、自分のやりたい事を実施しては、追放されかねないという思いが、常に信玄の心にありました。
信玄には、先の言葉に代表されるように家臣思いとされる逸話が多く、現代においては、マネジメントの達人のように見られる事もあります。
しかし、その実態は、それだけ信玄が家臣を恐れて、気を遣っていたという事の現れです。
上記の理由により、信玄の実態は、家臣や家族との関係からは見えてきません。
人間・信玄の実態に迫るには、本人の手紙が確実です。
信玄は、春日源助と名乗る美少年が、お気に入りでした。
ここ数年BLが世に定着し、小説・アニメ・映画等、BL作品は、大きな経済効果まで生み出しています。
実は、戦国時代も、BLは、世に定着していました。
信玄は、春日源助から、弥七郎と名乗る少年との仲を疑われ、手紙を出しています。
…自分が弥七郎をくどいた事は何度もあるが、いつも腹痛と言って断られた。これは本当のことである。これまで弥七郎と寝たことはない…
弁明になっていないような気もしますが、人間・信玄を近づく事が出来たような手紙です。
昔も、現代も、組織作りには、苦労が多いものです。
ひたすらに、家臣に気を遣っていた信玄が、心を許せる貴重な相手が、春日源助だったのかもしれません。