私の中の芥川

 

 

 

 …落語は、英雄譚じゃない。見栄っ張り、呑気や助平に、お調子者…

 …完璧に成れない普通の人間の失敗を語る芸。それ故に、弱さもまた武器に成り得る

 

繭泉ハルノ@ 凡人Vtuber希望の星 on X: "あかね噺は「憧れの父親が実は自分より才能と実力もなかった話」っていうバズツイ流れてきたけど!  おっ父の心の弱さを認めて、おっ父の弱さと決別するんじゃなくて「弱さが好きだった」「落語は英雄譚じゃないから弱さも武器に ...

 

 …弱くてもいい。それもまた、人としての味だ…

 

  『あかね噺』阿良川志ぐまの脳内言葉です。

 

 

 

  ♦どうせ生きているからには、苦しいのは、あたり前だと思え

 

 …周囲は醜い。自己も醜い…

 …そして、それを目のあたりに見て生きるのは苦しい…

 

  芥川の手紙の一説です。

 

  ★生後8ヵ月:母が精神病院に入院した為、叔母に育てられる

  ☆10歳:母が亡くなる

  ★12歳:叔父の養子になる

 

 芥川は「生きるのは苦しい」という事を、幼い頃から、経験として感じていました。

 幼少期からの「生きるのは苦しい」という気持ちが土台となり、芥川の作品は生まれています。

 

 そんな芥川を心から敬愛していた人物が、います。

 太宰治です。

 

 

 …生きている事。生きている事…

 …ああ、それは、何というやりきれない息もたえだえの大事業である…

 

  太宰治『斜陽』の一説です。

 

 太宰は、自分より17歳年上の芥川の作品を読み、自分に似た人がいると、強く感じました。

 幸か不幸か、芥川と太宰は、幼少期の経験も重なる部分が、多いです。

 

 

  ★芥川を導き出したのが、夏目漱石

  ☆芥川を敬愛したのが、太宰治

  ★太宰を大嫌いと公言し、誰よりも太宰を意識していたのが三島由紀夫

 

 

 文学史の歴史を紐解くと、面白いです。

 文学史を彩ってきた人物達は、同じ時代を生き、歴史上の人物等ではなく、現在から100年程前に生まれた人達であり、現在まで生きていても不思議ではない人達なのです。

 

 

 本には、本当に暗い心や辛い気持ちを、とことんまで描かれています。

 私達、特に日本人は、普通に生活をしていると、会話の中で、そこまで自分の心の内面を見せません。

 自然と、暗い気持ちや辛い気持ちを、隠そうとします。

 

 世の中に語られている事の多くは、成功体験です。

 苦労話もありますが、その苦労話も、結局その苦労を乗り越えた人の話です。

 

 しかし、世の中の多くの人は、その苦労を乗り越える事は、出来ません。

 乗り越えるのではなく、その苦労と上手く付き合っていったり、折り合いをつけたりといった所が、現実です。

 

 その為、私は、そのような気持ちに出逢うには、人と話すよりも、本を読む方が、必要であると考えています。

 

 

 

 

 …落語家になって、いろんな人に出会って、強い気持ちをぶつけられて、思ったんでしょ?おっ父と違うって。おっ父の仁と向き合って、分かっちゃったんでしょ?…

 …落語家・阿良川志ん太は、弱い人だった…

 

 「ねぇ噺は、ともだちなんだよね?弱い人は、ともだちになれないの?落語家って強くなきゃいけないの?」

 

如月 好葉 on X: "RT @cmfreak28: あかね噺は「憧れの父親が実は自分より才能と実力もなかった話」っていうバズツイ流れてきたけど!  おっ父の心の弱さを認めて、おっ父の弱さと決別するんじゃなくて「弱さが好きだった」「落語は英雄譚じゃないから弱さも武器になり得る ...

 

 …今まで、おっ父の芸はスゴいって、憧れて追いかけて、その所為で見えなくなってた。おっ父の芸の本質。おっ父は、あの人達みたいに強くない…

 

 …だからこそ、おっ父の語る人は、あたたかくて、やさしい。そうだ。私はーおっ父の弱さが好きだったんだ…

 

  『あかね噺』あかねの自分との会話です。

 

 

 

  ♦静かな本を読むと、心の中まで静かになる。余白を楽しめる人間には、文芸書がいい

 

 …人生を幸福にするためには、日常の瑣事(さじ)を愛さなければならぬ…

 …雲の光、竹の戦(そよ)ぎ、群雀の声、行人(こうじん)の顔ーあらゆる日常の瑣事の中に、無上の甘露味を感じなければならぬ…

 

 …しかし瑣事を愛するものは、瑣事のために苦しまなければならぬ…

 …人生を幸福にするためには、日常の瑣事を苦しまなければならぬ…

 …雲の光、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔ーあらゆる日常の瑣事の中に堕地獄の苦痛を感じなければならぬ…

 

  芥川龍之介『侏儒の言葉』の一説です。

 

 

 芥川龍之介が『羅生門』『鼻』『河童』等を執筆した時に暮らしていた北区田端の旧居は、弊社から1㎞程の場所にあり、私もそちら方面に行くと、旧居跡に立ち寄り、芥川の言葉を想いだす事が日課となっています。

 

 

 上記の一説、前半の部分は、日常のささやかな細部を大切にしその美しさと素晴らしさに気付いていく事が、人を幸福にしていくと言っています。

 このような文言は、あなたも何度も見てきて、現代でも多くの人が主張をしている事です。

 ところが、芥川はそこで終わりません。

 

 ささやかな事を愛する事が出来る人は、ささやかな事にも苦しまなければならないと、芥川は言います。

 たとえば、道端の花の美しさに気付く人はその花が枯れていく悲しさにも気付いてしまう、蝶が飛ぶのを美しいと感じられる人は虫の死骸が道端に転がっている無残さにも気付いてしまいます。

 味噌汁が美味しいというだけで幸せな気持ちになる人は、味噌汁が美味しくないだけで悲しい気持ちになります。

 

 

 ささいな事で幸せを感じる事の出来る人は、ささいな事で辛さも感じてしまうと、芥川は言っています。

 これは非常に鋭い指摘です。

 ただ、意外にも多くの人が、この事実に気付いていないのではないでしょうか?

 職場に不機嫌な人がいると、あなた自身も嫌な気持ちになるといった経験は、誰もが持ち併せているのではないでしょうか?

 

 「気にするな」と人は言いますが、気にならない人は最初から、不機嫌な人がいる事にすら気付かないものです。

 勿論、ささいな幸せにだけ目を向けられたら幸せかもしれませんが、ささいな幸せに気付く事が出来る人はささいな事で辛さを感じてしまう事は、自然の摂理なのです。

 そのバランスが取れる事が非常に大切なのですが、中々上手くはいかないもの。

 

 私は、ささいな幸せに気付くとともに、ささいな事で辛い気持ちになってしまう人に向けて、文章を記しています。