‥身勝手で予測不能なカリスマは、何をしても大衆が勝手に良い方に解釈し、信仰する‥
‥決断した尊氏は、速かった。新田軍を一蹴し、勢いのまま帝のいる京へ迫り、後醍醐政権は崩壊の危機を迎えた‥
‥だが、その時、稲妻のような進軍速度で、はるか奥州(おうしゅう)から、帝を護りに駆けつけた貴族がいた‥
『逃げ上手の若君』秀吉の中国大返しの1,5倍の進軍速度で、後醍醐天皇を護りにかけつけた北畠顕家に対する解説です。
☆中国大返し
★風林火山
☆大政奉還
豊臣秀吉・武田信玄・坂本龍馬の、伝説です。
しかし、上記3つを、戦国時代の200年以上以前に、南朝の貴公子が、実現していました。
尊氏が後醍醐天皇に最初の謀反を起こした時、北畠顕家は、後醍醐天皇に命じられ、奥州(現在の東北地方一帯)を統治していました。
援軍の要請を受けた北畠顕家は、奥州から京都を目指します。
☆10日で230㎞
★22日で800㎞
上記が秀吉の中国大返しの進軍速度です。
下記が北畠顕家の進軍速度です。
なんと、秀吉の伝説の200年以上前に、北畠顕家は、秀吉軍の1,5倍の速さで進軍を成功させていたのです。
「ねえねえ顕家様。前から思ってたけど、この旗って何?」
「風林火山だ。疾きこと風の如く・徐かなること林の如く・侵略すること火の如く・動かざること山の如し。孫子の兵法の軍の動かし方。余の軍に相応しかろう。」
…顕家様の軍は、風と火がほとんどな気が…
‥北畠顕家を祀った神社に、風林火山の旗が収められており、顕家の父・親房の書だと伝わっている‥
「亜也子は、諏訪大社の巫女だったな。この旗を奉納しておけ。諏訪明神の信者が、いつかそれを見れば、余を理解する大軍略家に化けるかもな。」
『逃げ上手の若君』亜也子と北畠顕家の会話と解説、そして、顕家の言葉です。
北畠顕家を祀った神社とは、大阪の阿倍野神社です。
そして、後の戦国時代・諏訪明神を信仰していた武将こそが、武田信玄です。
♦北畠顕家と武田信玄が繋がる
この発見をする事が、歴史を学ぶ醍醐味です。
‥決戦の1週間前。北畠顕家は、後醍醐天皇に手紙を書いた‥
‥「建武の新政」の問題点を痛烈に批判し、改善を促す内容だった‥
「地方の声をよく聞き!民の税を軽くし!人事は公正に!贅沢はやめ!法を明確に!能力有れば庶民でも登用を!無能で忠無き公家達より、忠義に溢れた辺境の雑兵共に恩恵を!」
「我が諫めに帝がお従いにならないなら、顕家は職を辞していなくなります!」
‥21歳の若者が、天皇を直にディスり回すというとんでもない手紙‥
‥滲み出るのは、帝と国を思う真心。曇りなき自分への自信。北の民への強い信頼。そして、忍び寄る死への覚悟。それは、まるで遺書だった‥
『逃げ上手の若君』北畠顕家が後醍醐天皇に贈った手紙の解説です。
現在から686年前、北畠顕家は、現在にも通ずる内容の手紙を、後醍醐天皇に贈っていました。
1338年:石津の戦い
1867年:大政奉還
顕家の手紙から、529年後の幕末、幕末の英雄・坂本龍馬も、幕府と長州・薩摩との武力衝突を避ける為の手紙を記します。
この手紙は、土佐藩から、徳川慶喜に渡されます。
この手紙も1つのきっかけとなり、慶喜は「大政奉還」をし、政権を朝廷に返上します。
★700,000~900,000人
☆8,000人
上記が、アメリカ最後の内戦・南北戦争の死者数です。
下記が、日本最後の内戦・戊辰戦争の死者数です。
時期をほぼ同じくした日米の最後の内戦では、死者数に、驚くべき差が生じている事が理解出来ます。
この要因の1つが、慶喜が実施した「大政奉還」です。
内戦における死者数を抑える事で、日本は、国力を失わずに、次の時代に進む事が出来ました。
これにより、外国からの統治を受ける事もなく、瞬く間に近代化をする事に成功します。
♦北畠顕家と坂本龍馬が繋がる
この発見をする事が、歴史を学ぶ醍醐味です。
「この諫言が帝に最も響くとすれば、それは余が勝った時か、死んだ時だ。」
「勝った時は、余が直接帝に申し上げる。死んだ時は、逃げ上手の若(なんじ)が帝にこれを届けよ。」
「‥‥顕家卿。貴方は、いつもせっかちで、結論を急ぐ。いつも貴族意識丸出しで、差別主義者で、派手好きで出しゃばりで、意地悪で、自分が上に立たないと済まなくて、迅くて強くて、言いたかないけど美しくて!」
「悠々と前を行きながら、こんな子供にも敬意を持って接してくれた!僭越だけど、兄のように思っています!」
「必ずや弟が兄を勝たせます!帝への文句は、貴方が直接言って下さい!」
「結構。そうしよう。」
『逃げ上手の若君』北畠顕家と北条時行の会話です。